ここで考えられるのは、寝る時、着ている衣服を上にかけて寝るとすると、床に広げた時に相当の幅がなければならず、また丈も長くないと足まで包んで眠ることはできない。
女性の和服でおはしょり(着丈より長く仕立てた女物長着を着るとき、腰のところでたぐり長さを調節)をして着るが、それは和服の構造が寝るときに躰に掛けて寝るという目的に対し理にかなっている証である。
小倉百人一首の歌は、ひとり寝の場合だが、ではふたりして寝るときはどうなるのか。
相手がいる場合、双方が衣の下に敷いた方の部分を重ね合うように身を寄せて、袖を通した方を上にして横に向かい合う格好で寝ていた。こうなると、男と女の左右のポジションも決まってくる。
また、この衣片敷にて触れ合えば、触れ合った肌を重ね合わせ、打ち掛け合うことになるのだが、朝が来れば衣を重ねて掛けて共寝をした男女は、衣と衣とを、もとどおり身につけて別れることになる。
その辛さや名残惜しさを「衣衣/後朝(きぬぎぬ)の別れ」という言葉であらわした。平安時代前期の最初の勅撰和歌集『古今和歌集』や鎌倉時代の勅撰和歌集『新勅撰和歌集』でもそうした情景が描かれている。
江戸時代、遊里の妓(あそびめ)の中には遊客に対し自分の特別の好意を示すため、真情をあらわす行為として裸寝したと伝えられている。
普段、妓の着衣の姿しか見ない男が、女の裸身を直接見ながら妓の真情をとらえて肌に直接触れることで、大抵の男は恍惚が漪(さざなみ)のように寄せたような幸せな気分となったであろう。
道家斉一郎著の『売春婦論考』によれば、売れっ妓の要件は第一が鳴女(よがる声や喘ぎ声が官能的な妓)、第二が裸寝であるとのことである。
鳴女も裸寝も、訪客を喜ばす手であり「妓に本気で惚れられている」と客に思わせる手練の一つであった。
艶容なる女性の下着とは秘部を隠すためにあるのではなく、脱ぐために付けるものであり、御仁には、それを眺めたり、脱がしたりという愉しみ方もある。