そんなものは適性のある奴が勝手に伸びればよい。取り上げるのはバッハでありモーツァルトであり、ベートーベン、シューマン、ヴァーグナー、ドビュッシー、ラヴェル、メシアン、そして私自身が指導してもらったメシアン以降の世代、ブーレーズやシュトックハウゼン、ノーノの作品などは教えます。

 直伝ですので伝わり方が違うというのが、まあ教わる諸君にはメリットになるでしょう。

 身に着けるべきものは、まず「基礎」なのです。

 そのうえで、それを自在に活用して「古典」をわが物として再現する・・・それが、例えば企業で新製品開発に向き合うということの要諦になる。

「枯れた技術」で歩留まりの高い、数売って利潤が出るような製品は、「前座噺」的な基礎を完全にマスターしたエンジニアが手掛ける新商品開発は、「芝浜」など古典の大ネタに似ている気がします。

 また、圓丈自身がライフワークとするような「新作落語」は、「前座噺」ができておらず、すでに書き上がっている古典の大ネタもこなせないような連中が何かやっても、どうにかなるようなものではない。

 私はテレビを観ませんが、まれに運悪く目に入る「芸人」と称する実質素人が見せるコントは、99%圓丈のいう「臭くて見てられない」代物だと思っています。

 それでオンエアしてヒト・モノ・カネがぐるぐる回転するから、いまのように話芸全般が、ほぼ絶滅の危機に瀕した状況に至っている。

 亡くなったばかりの「林家こん平」氏には、やや申し訳ないのですが、1972年、彼が真打に昇進するにあたって、芸にウルサい6代目三遊亭圓生(圓丈の師匠)が苦言を呈したのも、つまるところ「前座噺がなってねぇ」であったように思います。

 それがなくても「人気」が出てしまい、それに伴ってヒト・モノ・カネが回転する「テレビ」ないし「マスメディア」という化け物が、最大の元凶になっている。