日本のまちづくりの歴史を見たとき、特にダイナミックなストーリーを持つのが「北海道」だ。言わずもがな開拓地であり、そのストーリーを知ってから“まち”を見直すと、新しい発見がある。
「北海道は、国策として開拓した地域です。しかも本格的な開拓は近代以降で、当時の計画や図面が詳細に残っている。まちづくりの計画をどう立てたのか、成功した箇所、志半ばで縮小や中止を余儀なくされた箇所はどこなのか、克明にわかります。その記録を今のまち並みと照らし合わせると、いろいろな発見があり、まち歩きがもっと面白くなります」
このように話すのは、都市工学の専門家である國學院大學新学部設置準備室長の西村幸夫教授。北海道の開拓の歴史とはどんなものなのか。西村氏の話をもとに道のりを追っていく。
【前回の記事】静岡に残る「最後の城下まち」としての面影とは(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63237)
道もない札幌から開拓が始まった理由。カギは「北の脅威」
――今回は、北海道の開拓史について伺えればと思います。
西村幸夫氏(以下、敬称略) わかりました。明治以前の北海道は、内陸部に大きな道やまちがほぼ存在しない状態でした。松前藩の城下まち、松前を除けば、当時あったのは函館で、一足先に町人たちがまちを築き、北海道の拠点となっていました。そのほか、根室や小樽など、海岸沿いに道があり、漁業を営む人がわずかにいる程度だったと言えます。
この状況下で、政府が北海道開拓を決めたのは明治2、3年のこと。まず、内陸部の札幌に目をつけ、開拓を計画します。
ここで疑問に思うのは、「なぜ海上からのアクセスができない内陸部から開拓を始めたのか」ということです。海沿いに道があるなら、そこを起点に、徐々に内陸部へと進出する方が容易なはず。しかし、まちも道もない札幌から着手したのです。
――確かにそうですね。どんな理由があったのでしょうか。