好意や愛が反転したとき、人は傷つく(写真:CarteBlanche/イメージマート)

 2019(令和元)年6月5日に「女性の職業生活における活躍の推進に関する法律等の一部を改正する法律」が公布され、労働施策総合推進法、男女雇用機会均等法及び育児・介護休業法が改正された(令和2年6月1日施行)。本改正により、職場におけるパワーハラスメント防止のために、雇用管理上必要な措置を講じることが事業主の義務となった。同時にセクシュアルハラスメント、いわゆるセクハラ等の防止対策も強化された。職場でハラスメント講座の受講が義務化されている企業も多数ある。

 講座で、特定の社員に髪型や容姿にまつわるほめ言葉を言ってはいけない、「髪の毛切った?」「そのジャケットよく似合っているね」といった発言もセクハラの対象になると聞いて驚き、自身の言動を振り返った人も多いのではないか。その場ではニコニコと笑って聞いていた社員から、後で「聞きたくもない話を聞かされた。セクハラだ」と訴えられた事例もあると聞くと、穏やかではいられない。

モテたい理由』『愛と暴力の戦後とその後』などの評論で、この国の語り得ないものを言葉にしてきた作家、赤坂真理さんが6年ぶりに新書『愛と性と存在のはなし』を刊行した。ここでは、セクシュアリティとジェンダーをめぐる言説をあらためて見直し、現代社会の本当の生きづらさの姿を炙り出している。

「セクハラ」という言葉の有効性

 愛と性をめぐる問題系の中で、最もありふれたことの一つなのに、議論が一向に深まらないことがある。いわゆる「セクハラ」の問題である。「セクハラ」と聞くと、良心的な男性の多くがどれほど身構えるものかを、わたしは知っている。

 同時に「セクハラ」を受けたと感じる側が、どれほど驚いたり不安定な気持ちになったり傷ついたりするものかも知っている。

 これは女性とは限らない。性的な傷は男性から女性に付与されるものとは限らない。いわゆるフェミニストの多くがそう考えて、男性を女性の敵呼ばわりするのは痛恨の極みである。男から女の例が多いのは事実だが、女から男の例がないわけではない。

 これから話すことは、セクハラは男性の行為とするものではなく、むろん男性を論難するものでもない。同時に、受けた側の落ち度を責めるものでもない。「セクハラ」という用語自体の、有効性についての話である。

 今のセクハラ議論は、誰をも防衛させるだけ、という気がしている。もしかしたら「セクハラ」という語を使うことで、誰にも真実がわからなくなるのではと疑う。社会全体にも。訴えた本人にさえ。

 先日起きたわたし自身のある経験をきっかけに、わたしは「セクハラ」という用語自体の有効性を疑うようになった。理由は二つある。

・その用語を使うことで、傷ついた本人の回復が遅くなる可能性が高いこと。

・ いわゆる「セクハラ」は、今思われているようなものではなく、別のことに近いと思うに至ったこと。

 また当人も含め、誰がどんなに気をつけても、誰かが性的に傷つく事態というのはなくなりはしないと思っている。

「セクハラ」は「あってはならないこと」というより、起きる構造をまず知って、「起きたらどう対処するのがいいか」という発想をしたほうがいいように思う。いじめでもそうだが「あってはならないこと」とすると、みんなが硬直し、ひいては社会全体が硬直する。