世界を二分するイベリア半島の二国
一方のスペインとポルトガルについて見てみましょう。
1494年のトルデシリャス条約により、世界はスペインとポルトガルによって二分されることになりました。どういうことかと言えば、ローマ教皇によって、西経46度37分を分界線とし、そこから東で新たに発見された地はポルトガルに、西の地はスペインに権利が与えられることとなったのです。この「新領土」というのが曲者で、そもそもヨーロッパ人はアメリカ大陸に先住民がいたのに新領土としたのですから、考え方によっては、どこだって「新領土」と言って侵略することができるのです。
カトリックの理論によれば、世界は神が創造したものです。つまり世界は神のもの。その神の持つ権利はローマ教皇に委ねられているわけですから、ローマ教皇のお墨付きがあれば何でもできる、という理屈になってしまうのです。
そして世界の覇権争いを繰り広げたイベリア半島のこの2国は、1580年から1640年にかけては一つの帝国となります。スペインがポルトガルを併合し同君連合となった時代です。ということは、カトリックの理屈で言えば、「スペイン・ポルトガル帝国が世界を支配することになった時代」なのです。スペイン・ポルトガル帝国が本当に一国として機能したかどうかは別として、それはこの時代を生きた信長、さらには秀吉に大きな脅威だったはずです。
しかし、この強大な帝国の出現を前にしても、秀吉は彼らに恭順するような考えは持ち合わせていませんでした。スペインが世界の植民地化を目指し、明朝中国を狙っていると見抜くと、「スペインに明を征服されるくらいなら、自分が」と考えた。それが朝鮮出兵の本当の動機でした。さらには朝鮮半島、琉球、台湾、さらにはフィリピンをも服属させようとしていたばかりか、ポルトガル領インドを征服したいという意志さえもっていた――それが、平川氏の考えです。
そんな構想を立て、朝鮮に出兵できたのも、日本の軍事力がきわめて強かったからです。平川氏の説が真実ならば、秀吉の本当の野望は、アジアに進出してきたスペイン・ポルトガル帝国を退け、日本の領土を拡大することにあったかもしれません。
近年の欧米の研究を見ても、16世紀後半から17世紀初頭にかけ、スペインが日本の軍事力を恐れていたということが言われるようになりました。そもそも南アジア各地に南洋日本人町があり、日本人は積極的に海外に進出していました。そうした海外ネットワークに加え、世界有数の軍事力を備えていたのですから、日本という国がスペインにとって脅威であったとしても不思議ではありません。少なくとも、そう易々と侵略できるような国には見えなかったはずです。
スペインは、ポルトガルに少し遅れて1571年にフィリピンにマニラを建設することで、本格的にアジアに進出するようになりました。そのスペインとポルトガルからなるスペイン・ポルトガル帝国と対峙するため、秀吉は日本からインドに至る帝国の形成を考えていたかもしれないのです。
この説にはまだ推測の部分が多く、確定した事実とは言えませんが、スペイン・ポルトガル帝国が日本に与えた脅威により、秀吉の対外政策が大きく動いた可能性は十分あると考えられるのです。