ドイツで起こった第二次産業革命を象徴する工場「フェルクリンゲン製鉄所」。世界遺産にも登録されている(ウィキペディアより)

「産業革命」といえば、18世紀後半にイギリスで起こった、蒸気機関を利用し、石炭を動力源とする軽工業の進展を思い浮かべる人は多いでしょう。このイギリスの産業革命は、綿工業を中心に起こったものでした。当時、イギリスは「世界の工場」でした。それまで手工業で作られていた綿製品を、安価で大量に生産できるようになり、これが世界中を席巻したのです。

 この産業革命はヨーロッパにも伝播していくのですが、同じヨーロッパにありながら、この動きに大きな遅れをとったのがドイツでした。この頃のドイツは「ドイツ連邦」は、オーストリア帝国やプロイセン王国、ザクセン王国、バイエルン王国といった数十もの主権国家の連合体でした。それぞれの国家は互いに関税をかけ合うなどして、統一的な経済圏としては非常に非効率な状態にあったことも、イギリスなどに比べて産業の発展が遅れる要因となっていました。

 ですからイギリスが産業革命で隆盛を極めていた当時のドイツは、イギリスの綿製品を購入する一方という状態でした。おもな輸出品は小麦などで、ヨーロッパの農業国という立場だったのです。

 しかし産業発展には非効率な連邦内の状況を改善するため、1834年、プロイセンを中心に、ドイツ関税同盟が発足します。これにより、ドイツでも工業発展の下地が整っていきます。

 それからドイツの工業化が加速し始めます。しかしそれは、イギリスをただ模倣するものではありませんでした。世界史の教科書では、イギリスなどで起こった産業革命に対し、それから70~100年ほど遅れてドイツやアメリカで始まった工業化を「第二次産業革命」と呼ぶことがありますが、そこには大きな違いがありました。先述のように、イギリスで起こった産業革命が石炭をエネルギー源とし蒸気機関を利用した軽工業中心だったのに対し、ドイツやアメリカで起こった産業革命は、その過程を経ずに、石油や電力をエネルギー源とする鉄鋼・機械・造船などの重工業や化学工業中心でした。

 実はわれわれの生活に対するインパクトで言えば、第一次産業革命よりむしろ第二次産業革命のほうが大きかったと言えるでしょう。軽工業中心の第一次産業革命と比べ、重工業や化学工業中心の第二次産業革命はより多くの投下資本が必要になります。そのため株式会社化が進展します。さらにドイツでは、企業連合であるカルテルが形成されるようになります。つまり、現代まで通じるような資本主義経済の仕組みもこのときに大きく発展したと言えるのです。

 そこで今回は、特にドイツの産業革命について見ていきたいと思います。

 ドイツの産業革命の中心を担ったのは、重工業や化学工業と述べました。この頃、設立されたり発展したりした企業の中には、現在も存続している企業がいくつもあります。クルップ(現・ティッセンクルップ。重工業)やシーメンス(電気機器)、BASF(化学)、AGFA(化学)などです。

 そして、当時の化学工業の中で大きく発展したのが、人工染料の生産でした。

第二次産業革命

 第一次産業革命では、科学的研究ではなく実際の経験にもとづいて綿製品が製造されました。つまり従来からあった、綿花から糸を紡ぎ、それを織りものにしていた工程を、手工業から機械化したわけです。

 それに対し、第二次産業革命は、より科学的な手法が導入されます。ドイツでは、工科大学で高等教育を受けた技術者が増加しました。このように、第一次産業革命と第二次産業革命のあいだには、大きな差が存在したのです。

 さて、第一次産業革命で、それまで手作業で生産されてきた綿布が安価で大量に生産できるようになりました。繊維製品はファッション性の高い品物です。したがって価格や織り方などとともに、どのような色に染め上げるのかが、売れ行きを左右する大きな要素になります。

 元来、綿織物への着色には、植物を利用した藍や、虫から抽出したコチニールなどが使用されていましたが、第二次産業革命期のドイツでは、化学的な着色の技術が発達しました。