戦国の理論・拡大の理論
秀吉は、1590年に小田原の北条氏を征服し全国統一を成し遂げると、1592年と1597年に朝鮮へと侵略軍を派遣します。
これは、結果だけ見れば大きな失敗でした。この戦争を仕掛けなければ、多くの大名の財政を悪化させることもなく、豊臣政権はもっと長続きしたかもしれません。
ただ現実に秀吉が選んだ行動は、戦国時代の理論に基づくなら十分理解できるものです。それは、いわば「拡大の原理」です。大名は、戦争で勝って領土を獲得したなら、その一部を配下の武士たちに与えます。だからこそ武士たちは、主君である大名についていくのです。
秀吉は、とくに気前の良い大名でした。秀吉は貧しい農民の倅なので、もともとの子飼いの大名がいなかったことがその理由として考えられます。秀吉の力が強大化する中で、どんどん増え続ける家臣らに対する求心力を維持するためには、とにかく領地を分け与えたりする必要がありました。そして家臣団がさらに膨らんでいくのなら、新しい領地を獲得しなければなりません。そのために大陸に目を付けた――という理屈には妥当性がありそうです。
豊臣秀吉の考え
ただし、それだけではなかったようです。これに関連して、歴史学者の平川新氏が最近非常に大胆な説を唱えています(『戦国大名と大航海時代――秀吉・家康・政宗の外交戦略』中公新書、2018年)。
平川氏は、日本はなぜスペインの植民地にならなかったのかという疑問を投げかけます。
平川氏は、秀吉の朝鮮出兵によって、スペインは日本の軍事力の強さを知り、日本征服を諦めたというのです。そしてこのとき刻み付けられたら「軍事大国・日本」というイメージは、イエズス会やスペインでその後も強く意識され続け、徳川の時代にまでひきつがれたというのです。
確かに戦国時代になって、日本は世界有数の軍事大国になりました。もちろんそれは火器をポルトガル人から導入したからです。1543年にたまたま種子島に漂流したポルトガル人が、この島の人々に鉄砲を伝えたとされています。
ですが、現在では、鉄砲は複数のルートから伝えられたという説もあります。事実はよくわかりませんが、ポルトガル人(おそらくイエズス会士)から伝えられたということは間違いないでしょうから、もしかしたらポルトガル人は、日本に武器を輸出したかったと考えられないでしようか。