三日月陣屋(兵庫県)。撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

大名が住んだ屋敷

 俗に「三百諸侯」というくらい、江戸時代の日本には、たくさんの大名がいました。でも、その大名たちが全員、城を築いて住んでいたわけではありません。1〜3万石くらいの小さな大名は、城を持つことができませんでした。かわりに、「陣屋(じんや)」と呼ばれる屋敷に住んでいたのです。その数、およそ100。大名家の三分の一くらいは、城ではなく陣屋住まいだったことになります。

写真1:静岡県の山あいに残る小島(おじま)陣屋の石垣。陣屋の石垣が全域にわたって良好に残っているのは、全国的にも珍しい。滝脇松平家1万石。

 1万石や2万石の大名では、動員できる兵力も200人からせいぜい500人くらい。これだと、一揆を押さえるくらいなら何とかなりますが、本格的な戦争になったら、自力で城に籠もって領地を守るのは、ちょっと無理。だいいち、財力が乏しくては、本格的な城を築いて維持することができません。そこで幕府は制度上、城を持つことのできる大名と、そうでない大名とに、ランク分けしたのです。

写真2:兵庫県の山あいにある柏原(かいばら)陣屋は織田家2万石。写真でわかるように堀や石垣はなく、御殿が塀で囲まれているだけだ。この陣屋を建てた織田家は、信長の次男・信雄の子孫だ。

 一方、1万石以下で幕府に直属する武士が旗本ですが、旗本の中には数千石の領地を地方に持っている家もありました。このグループを、交替寄合(こうたいよりあい)といいます。彼らは、自前で領地を治めていて、大名と同じように参勤交代もします。いわば、なんちゃって大名みたいな存在ですが、彼らの本拠地も同じく陣屋と呼ばれます。

 その他に、大名家が飛び地を治めるために設けた代官所や、幕府が直轄領(天領)を治めるための代官所も、陣屋と呼ばれることがあります。今回は、小さな大名たちの陣屋にスポットを当てて、陣屋の意外な魅力をご紹介しましょう。

写真3:福岡県の秋月陣屋は秋月黒田家5万石。普通なら城持ちになる石高だが、福岡黒田家の分家なので、遠慮して陣屋で済ませている。周囲には陣屋町の風情がよく残り、散策すると楽しい。

 陣屋の規模や形は、さまざまです。築いた大名の石高=財力や、おかれた立場、お家の事情などによって、決まってくるからです。そして、どの陣屋も、総じてショボいです(笑)。当たり前ですよね。財力がないんですから。ただ、よく見ると、ほとんどの陣屋に共通する要素もあります。それは、占地です。

 城の場合は、攻めにくく守りやすい地形を選んで築きます。ところが陣屋の場合、すぐ後ろに高台があったり、まわりが中途半端に開けていたりと、守るには不利な地形に築かれているケースが多いのです。はっきりいって、弱そうです。

写真4:兵庫県の三日月陣屋は森家1万5千石。トップ写真のように正面から見ると立派だが、横へまわるとこのとおりスッカスカ。すぐ後ろには高台になっていて、これでは戦いようがない。

 そのかわり、住み心地のよさそうな地形や、交通の便のよさそうな地形に占地しています。どのみち、ガチの戦争になったら守り切れないので、難攻不落はあきらめて、最初から領地を治めることに専念しているのです。

写真5:三日月陣屋の正門は堂々たる櫓門。城っぽくて、ここだけ見ると、かなり立派! ちなみに、三日月藩森家は津山藩森家の分家。森家はもともと織田信長の家臣で、ヤンチャな家柄で鳴らしていた。