またイタリアだけでなくヨーロッパ全体で、農業技術が改善され、たくさんの食料、とくに穀物が生産されるようになります。耕地を三分して作物を替えることによって地味の低下を避ける三圃制農法の普及などで、食料の生産量は増えました(それ以前には耕作地と休耕地を一年ごとに入れ替える二圃制農法が主流でした)。
しかし食料生産の増加は、ヨーロッパに大きな問題をもたらすことになりました。ヨーロッパで疫病が発生しやすくなったということです。交易が増加すると、ヒトの移動が増えます。ヒトからヒトへと、さらにはヒトとともに移動する齧歯類やノミ、ダニなどからさまざまな病気がヨーロッパに輸入されることになりました。それだけではありません。人口が多くなるということは、人々が密集するようになり、病原菌やウイルスに簡単に感染するようになり、病気が広まる可能性が高くなるのです。
中世のヨーロッパ都市には、周囲に城壁がありました。それは都市と他地域を区別するためだったのですが、いったん病原菌やウイルスが侵入すると、病気が蔓延することになりかねません。また当時の都市は、現代のように下水道が発達しているわけではありませんから、衛生環境も決して良好なものではありませんでした。そのため感染症が発生しやすく、平均寿命も決して長くなりませんでした。近代になるまで、都市は農村よりも死亡率が高く、農村からの農民の流入が絶えず必要とされたのです。
こうした環境が、イタリアを経由して入ってきたペスト菌が、ヨーロッパ中でパンデミックを生じさせる前提条件となっていたのです。
ペスト菌の感染ルート
黒海に面するクリミア半島に位置する貿易都市に、カッファがあります。イタリア人はここを、貿易の拠点としていました。カッファは、アレチネズミ、ジリスなどの病原菌をもつ動物がいる南ロシアに隣接していました。
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1346年4月、ロシアのジョチ・ウルス(いわゆる「キプチャク・ハン国」)でペストが発生しました。それが、カッファに伝染したのです。ただ、1347年の冬は大変寒く、ペストの流行はそこでいったん収束しました。