落書きされた香港の空き店舗。撤退した店舗は数えきれないほどある

(姫田 小夏:ジャーナリスト)

 香港のハリウッドロードは、カフェやバー、レストラン、雑貨店などが集まり、古き良き香港のたたずまいを残す街並みとして多くの観光客を集めてきた。だが、今年(2020年)1月、ハリウッドロードを1年半ぶりに訪れたところ、ある異変に目を見張った。なんと空き店舗だらけだったのだ。

 シャッターが下りた店舗には、「FOR  LEASE」「出租」などと書かれ借り主を募集する紙が貼られている。もぬけの殻となった店舗が並ぶハリウッドロードは、かつてとは雰囲気が一変していた。

 営業をやめたことがわかると、店舗のシャッターや外壁には瞬く間に広告物がベタベタと貼られていく。不動産、飲食、物販などチラシの種類はさまざまで、空き店舗はさながら“広告掲示板”として利用される。チラシが貼られる程度ならまだマシかもしれない。中にはスプレーでいたずら書きをされる店舗もある。

 実は香港で空き店舗が増えているのはハリウッドロードだけではない。世界の金融機関や一流外資が集まる湾仔(ワンチャイ)や金鐘(アドミラルティ)などでも同じ現象が起きている。

 2019年春以降、「逃亡犯条例改正」に反対する抗議デモはどんどん過激化し、地下鉄が動かなくなったり道路が封鎖されたりした。香港在住のある日本人は、「親中派と見なされる飲食店が攻撃を受けました。さらに交通がマヒして従業員や客が来られなくなったため 閉店に追い込まれた店もあります」と話す。

 現地紙「信報」は、デモが激化した2019年10月には飲食業界の損失が30億香港ドルに達し、1000店が閉店に追い込まれたと報じた。その影響は不動産価格も及ぶ。米投資銀行モルガンスタンレーは「2020年の香港の店舗賃料は2割下落するだろう」と予測している。

空き家は増える一方

 住宅街からは住民が退去を始めている。九龍半島の旺角(モンコック)は激しい抗議デモが繰り広げられた場所だが、この地で長年にわたって賃貸管理業を営む黄木林さん(仮名)によると「旺角を去る住民が後を絶たない」という。

 旺角でそんなことがあり得るのだろうか? 筆者が「信じられない」という表情をすると、黄木林さんは背後の戸棚からカギを取り出し、テーブルの上にジャラリと広げた。「ほら、こんなに空き家があるんですよ。今回のデモで住人たちは台湾、マレーシア、日本などに逃げていきました」。

住人が退去した後の部屋。この空間に一家3人が住んでいたという

 実際に2019年1~10月、台湾の移民署での香港人の居留申請は前年比で2割も増えた。香港島の路上では、日本への移住を促す広告物が掲示されていた。1997年の返還時にも香港から多くの市民が海外に離散したが、“脱出・第2弾”が進む気配だ。

日本への移住を促す移民手続き代行の広告。「移民なら最も愛する場所に行こう」と書かれている

 筆者は高級住宅街にも足を延ばしてみた。香港の中心部から列車で1時間弱。深センにほど近いその街は、都市部に見るような過密さはなく、手つかずの土地の間に贅沢な分譲住宅地が広がっていた。

 しかし訪問先の友人によれば、「デモが行われるようになってから、ここを売却してインドネシアに行ってしまった中国人がいる」という。一般市民のみならず、富裕層も動き始めているということなのだろうか。

急激に下落する香港の住宅価格

 今の香港はあまりにも荒れている。デモ隊はいたるところにスローガンをスプレーで書き、建物や施設を叩き壊した。壊された地下鉄の改札口や券売機はいまだ修理されず、多くが布で覆われている。中国系銀行をはじめ攻撃を受けた店舗は、厳重な囲いで店舗を覆い、その中で営業を行っている。

 旺角の界隈は10階建ての古い共同住宅が集中する下町だ。住宅の平均面積はわずか10平米。6畳一間程度の広さに家族3人が、場合によってはおじいさん、おばあさんも住む。そうした生活環境への不満を爆発させたデモ参加者もいたのだろう。旺角では毎日のようにデモ隊が暴れ、警察と衝突し、街が破壊された。前出の黄木林さん自身も催涙ガスを浴びた後遺症で、「それ以来、ずっと調子がおかしい」と目を瞬(しばたた)かせていた。

 住宅価格は市場での取引価格が相場を決めるが、当然、周辺環境も加味される。住みやすく魅力ある都市には多くの人が集まり、その人気が住宅価格を押し上げていく。反対に、住民が逃げ出していくような土地は価値が下落する。

 中古マンションも値を下げている。香港島の中環(セントラル)から湾仔(ワンチャイ)は、政府機関や一流企業のオフィスビルが集まるエリアだが、地元の不動産屋に掲げられた物件情報の売り出し価格は、いくつかが黒マジックで最新の値下げ価格に修正されていた。

 たとえば、34.6平米の物件は618万香港ドルから598万香港ドル(1香港ドル=約14円)に、35.7平米の物件は売り出し価格580万香港ドルが570万香港ドルに、47.5平米の物件は899万香港ドルが750万香港ドルに、といった具合だ。モルガンスタンレーは、2020年の香港の住宅価格は10%下落すると予測している。

従来の相場では買い手がつかない状況に陥っている

 香港人が、自分が生まれ育った土地の価値を自ら貶めてしまっているとしたら、大変残念なことである。

 だが、ひょっとすると、それはデモ参加者たちが思い描いたことだったのかもしれない。

 これまで香港の住宅価格は恐ろしく高かった。香港の分譲住宅の販売単価はSARS(重症急性呼吸器症候群)のあった2003年を底に、ずっと右肩上がりを続けた。バブルだ、バブルだと騒がれる上海の住宅価格は2010年には東京の水準を超えたが、香港の分譲住宅はその上海の倍の水準だ。住宅価格は年収の5倍が適当だといわれているが、香港の平均住宅価格はもはや世帯収入の14倍だといわれている。庶民にはとても手が届かない。

 しかし、金持ちが街を去り不動産をどんどん売却すれば、住宅価格が押し下げられ、庶民の生活も少しは楽になる。それを実現するために街を破壊する──。今の香港の不動産市況を見ていると、そんなシナリオさえ思い浮かべたくなってくる。