香港・元朗の街。新界と呼ばれる郊外地域にあり、背の低い古い建物が多い

 2019年6月に始まった香港の反体制デモは現在も続いているが、同年11月24日の区議選で民主派が地滑り的な勝利をおさめたことを契機に、過激な行動はやや沈静化した。
 著書『八九六四 「天安門事件」は再び起きるか』(KADOKAWA)が第50回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したルポライターの安田峰俊氏は、デモ発生から香港に通いつめて現地の情報を発信してきた。・・・が、諸事情から時機を失して発表できなかった原稿があるという。その「問題記事」を緊急寄稿してもらった。(JBpress)

風俗ビルに飲み込まれていったデモ隊の若者

 香港島の目抜き通り、軒尼詩道(ヘネシー・ロード)を人波が埋めている。2019年9月15日14時30分ごろ、香港ではこの日も数十万人規模の大規模デモがおこなわれていた。

 昼間の時間帯は「和理非」と呼ばれる平和的な市民デモがおこなわれ、夜になると「勇武派」と呼ばれる過激派が、警官隊との武力衝突や「親中的」な店舗の破壊を繰り広げる――。この当時、週末デモの展開はそうしたパターンがなかば固定化していた。

 デモのトレードマークのマスクと黒シャツに身を固めた市民の隊列は延々と続く。私は彼らの先頭近くまで先回りしようと、軒尼詩道と1ブロックを挟んで隣接する駱克道(ロックハート・ロード)を西に向けて、カメラを抱えて小走りで進んでいた。

 すると馬師道(マーシュ・ロード)との交差点で、デモ隊から外れてきた若者が道路を渡るのが見えた。人通りの少ない裏通りで黒シャツ姿は目立つため、何気なく目で追っていると、彼は「富士大厦」(FUJI BUILDING)と書かれたピカピカのビルの入口にスッと吸い込まれていったのだった――。

「おいおい、マジかよ?(笑)」

 私の苦笑には理由がある。この富士大厦は、内部に「141」(一樓一鳳、一樓一)と呼ばれる性風俗店が数十部屋も密集した、香港でも指折りのいかがわしい建物として有名なのだ。

デモから抜け出し、富士大厦に消えていった黒シャツの若者の後ろ姿。2時間後、この日もデモ隊と警官隊との大規模な衝突が発生した

 香港市民が未来を賭けて戦うデモの開始早々に離脱して、進行ルートの近くにあるエッチなお店に、真っ昼間からマスクと黒シャツのデモ姿のままでフラフラと行ってしまうダメ人間。私は彼の姿に少々あきれつつも、生々しくも憎めない人間味を感じたのであった。

141という香港版の「飛田新地」

 話を先に進める前に141について簡単に説明しておこう。ものごとの性質上、信頼度が高い情報源がきわめて少ないので、やむをえず主に中国語版のWikipedia記事「一樓一鳳」の記述にもとづいて書く。

 香港では売春行為自体は禁じられていないが、金銭を対価にした性的サービスを組織的に提供する管理売春は違法となっている。ゆえに法の抜け穴をつく形で、客となる男性が、アパートの部屋に1人で暮らす個人事業主の女性を訪ねる形の性産業が発達することになった(ちなみに香港の旧宗主国であるイギリスも同様らしい)。

 とはいえ、管理売春の禁止はあくまでもタテマエの話だ。香港各地の繁華街や下町には、ほとんどの部屋が「141」になっているボロい建物が少なからず存在する。日本人にイメージしやすく言えば、大阪の飛田新地や往年の横浜の黄金町のような「ちょんの間」街が、住宅事情が厳しい香港ではひとつのビルの形をとり、立体的に展開していると考えてもいい。