こうした中で大久保は、自らが西郷の代わりに働こうと決意する。狙いを斉彬死後に国父の地位にあった久光に絞る。囲碁が趣味だと聞きつけるや自らも碁を覚え、久光が読む本の中に手紙をしのばせるなど、あらゆる手段を使って取り入った。
とんだ食わせ物だった慶喜
文久2(1862)年、転機が訪れる。久光は幕政改革を志し、3000の兵を連れて上京し、政治改革を上奏する。朝廷の主流派は薩摩の兵力を背景に幕府に圧力をかけるべく、そのまま江戸に下る。そして、幕府に対して「一橋慶喜政権の樹立」を要求した。当然、老中たちは渋るが、勅使大原重德は暗殺をも仄めかして飲ませた。その時、控えの間には大久保利通が屈強の刺客を引き連れて控えていたという。かくして、慶喜は薩摩の力で事実上の政権首班に就いた。
当時、慶喜は「日本を救えるのは、この人しかいない!」と評判だった。若い頃より英才の誉れ高く、多趣味な教養人だった。行政を切り盛りするとの意味では、最高の政治家だった。謀略の類も得意だった。非情の決断もできた。個人的な身体能力も高く、武芸百般に通じ、実際に戦場での指揮も卓越していた。名門の生まれであり、日本一の人脈を誇った。すべてを手にしていた完全無欠の政治家のように思われていた。
ところが、慶喜はとんでもない食わせ物だった。慶喜はあらゆる勢力を振り回し、いいように使い、平気で切り捨てる。微塵も躊躇しない。
まず、切り捨てられたのが薩摩だ。慶喜の政権基盤は、会津と薩摩の軍事力だ。幕府の官僚機構や朝廷に対する発言力を持てるのは、薩会同盟を結んでいる両藩が慶喜に忠誠を誓うからに他ならない。だが慶喜は外様の薩摩を嫌い、同じ徳川の会津、それに桑名に傾斜する。その様は、「一会桑政権」と呼ばれた。天皇の名前を使い、ことごとく幕府の官僚機構の動きを封じ込める。朝廷に対しては外国の圧力を利用する。
日本に不平等条約を押し付けてきた列強は、貿易港として兵庫の開港を要求する。しかし、時の孝明天皇は、大の外国嫌いだった。京都と目と鼻の先の兵庫の開港など、この世の終わりである。慶喜はマッチポンプの如く振る舞った。外国に対しては、「兵庫開港問題を解決する当事者能力がある日本人は自分だけだ」と主張する。一方で天皇に対しても、「外国と話をつけて追い払えるのは自分だけだ」と囁く。列強も天皇も、慶喜に従うしかない。
この調子で5年間、外国公使も含めて、日本中を振り回した。そしてその間、1ミリも問題は解決しなかった。
列強の侵略にさらされていた日本にとって、解決策は簡単である。すなわち、強い政府を作る。全国に大名が点在して、各々が年貢をとって、勝手に軍隊や黒船を作っているようでは、列強に勝てるはずがない。だから、中央政府に税金を集めて日本国の軍隊を作るしかない。現代の我々は「富国強兵」こそが救国の道だと知っている。それは、当時の少なからずの日本人も知っていた。
だが、慶喜に政権を任せた5年間、何ひとつ「富国強兵」に向けて進まなかった。