西郷の奮戦もあり、薩長優勢で初日を終え、両軍が兵をいったん引き、翌4日に再び戦いが始まる。そして薩長に錦の御旗が翻った。徳川は逆賊である。ここに雪崩現象が起き、慶喜は潰走(かいそう)した。
なおも抗戦すべきと訴える側近と、慶喜の問答が残っている。
「ここに西郷吉之助ほどの者がおるや」
「おりませぬ」
「では、大久保一蔵ほどのものがおるや」
「おりませぬ」
慶喜と大久保を決定的に隔てたもの
慶喜は英邁な人物だった。本来ならば、大久保が対等に戦える相手ですら無かった。この時点で慶喜は征夷大将軍、大久保は外様大名の島津家の家老ですらない、ただの重役だ。だが、日本を救ったのは慶喜ではなく、大久保利通だった。ではいったい、何が違ったのだろうか。
ただ一点、未来への意思である。
大久保には明確な理想があった。日本を世界中の誰にも媚びないで生きていける、文明国にする。あらゆる空想を排し、決して現用に流されず。現実に可能ないかなる手段を用いてでも理想を実現する。
討幕維新は、大久保にとってゴールではなくスタートだった。そして、志半ばで暗殺に倒れる。その過程で、最大の親友である西郷隆盛を自らの手で殺した。
では大久保の理想が、実現したのはいつだろうか。
日露戦争の勝利である。明治37、38年戦役において、尊王攘夷は成就した。
世の中には大きく、2つの価値がある。1つは自分の生きている間がすべてだとの価値観である。この種の価値観にとらわれた人々は、権力、富、地位、名誉などを求める。もう1つは、自分の価値は生きている間に得たものがすべてではないとの価値観だ。
生前の大久保は、前者のように思われていたが、実際には後者の人であった。
大久保利通は、現状主義を徹底的に排した、現実主義者だった。