薩長同盟を深化し、打倒慶喜へ
そうした中、日本でただ1人、未来が見えていた人がいた。大久保利通である。大久保は、「慶喜がいる限り、日本救国はあり得ない」と確信していた。慶喜がいる限り、如何なる正論も通らない構図は、さんざん煮え湯を飲まされている薩摩は身に染みている。
だが、現実の慶喜の権力は絶大である。政治に如何なる空想も持ち込まない大久保は、できもしない正論に加担して焦って暴発などはしない。力を蓄えつつ情勢を探り、時を待った。
動きが起きた。長州藩が徳川に逆らい御所に発砲した罪で、第一次長州征伐を受けていた。その参謀で実質的指揮者が西郷隆盛で、長州に寛大な和議を許した。ここで慶喜の意のままに長州を潰すべきではないとの判断だった。そして元治元(1865)年、高杉晋作が長州藩内でクーデターを起こす。功山寺決起である。高杉は劣勢を跳ね返し、藩論を討幕で一致させた。
この動きに大久保は反応し、薩長同盟に動く。ただし、この段階では秘密条約であり、長州が再び徳川と交戦する際に薩摩は中立を守り、裏面で物資の援助をするに留まる。発覚したら謀反人として幕府法で罰せられる重罪だが、もし長州が破れたら無かったことにできる程度の紙切れだ。その証拠に立会人が、ただの素浪人の坂本龍馬だ。仮に幕府に同盟の誓紙を証拠として突きつけられても、「ふざけているのか?」としらを切り通せる。
それでも、逆賊として孤立した長州は、藁にもすがる思いだ。そして、徳川を相手に孤軍奮闘し、遂には撃退した。この間、幕府は薩摩に出兵命令を下したが、大久保はあらゆる手段を使って拒否した。
長州が実力を示したことで、薩長同盟は急速に深化する。何より大久保は、打倒慶喜に邁進する。
この状況でも、「慶喜抜きの政治はありうるのか」が、当時の政界の常識だった。慶喜は悠々、征夷大将軍に就任する。ただでさえ実質的な最高権力を握っている慶喜が、権限も掴んでしまった。こうした状況ゆえに、坂本龍馬なども慶喜を中心とした雄藩連合を構想している。むしろ大久保の方が、非現実的に見え、時に権力亡者に映る。
だが、そうした批判をした人たちの何人が大久保と同じ未来を見ていただろうか。大久保の理解者は西郷くらいだっただろうか。
抗戦すべきと訴える側近と慶喜の問答
武力衝突を回避し、じわじわと薩長を圧倒しようとする慶喜に対し、薩摩は徹底的に挑発する。討幕の密勅を引き出そうとする大久保に対し、慶喜は大政奉還の秘策で切り返す。将軍を辞めてしまえば討幕の大義名分は無くなると考えた慶喜に対し、西郷は江戸焼き討ちなどの挑発で切り返す。
慶喜もさるもので、大久保の盟友で朝廷工作を一手に担っていた岩倉具視を買収したとの風聞まで流れる。実際、岩倉の動きは一時的に鈍くなる。
だが、大久保は一歩も引かなかった。
そして、慶応4(1868)年1月3日、鳥羽伏見で慶喜と薩長は激突する。慶喜の兵力は薩長の3倍。大久保は自分の苦労がすべて「土崩に帰した」慨嘆した。だが、大久保は負けない。朝廷から錦の御旗を引き出した。