(花園 祐:中国在住ジャーナリスト)
幕末の明治維新において、長州藩は薩摩藩らとともに、尊王攘夷運動の高まりから維新政府樹立に至るまでの間、新政府勢力において主導的な役割を果たしました。時代が移った明治時代においても両藩の出身者は「薩長閥」などと呼ばれ、新政府の主要メンバー地位を独占するなど日本の歴史に大きな影響を及ぼしました。
その後、薩摩藩出身者は徐々に勢力を弱めていきますが、長州藩出身者は陸軍を中心に強い影響力を保持し続けました。彼らは「長州閥」と呼ばれ、大正時代に至るまで日本の一大エリート勢力としてその名を残すことになります。
ただそうして隆盛を誇った長州閥も、大正から昭和へと至る時代に、突如として姿を消すこととなりました。
そこで今回から夏の歴史集中連載として、日本の戦前におけるエリート集団「長州閥」の栄光と衰退について、3週連続でお届けします。初回の今回は、長州閥のルーツについて幕末の時代を見ていきます。
松下村塾に集った初期メンバー
長州閥のルーツは言うまでもなく長州藩出身者で間違いありませんが、さらに限定するとしたら、吉田松陰が指導を行っていた「松下村塾」出身者へと至ることができます。
密航未遂(ペリーが来航した際の黒船に乗船して密航しようとした事件)の罪で謹慎を受けた吉田松陰は、郷里の長州藩内で親類とともに松下村塾を開きます。この松下村塾は長州藩の藩校・明倫館とは異なり、出身身分の区別なく門戸を叩いた者をすべて塾生として受け入れ、平等に指導を行っていたことで有名です。こうした塾生受入れの寛容さもあって、伊藤博文や山縣有朋(やまがた・ありとも)といった、当時としては非常に低い身分の出身者であっても指導を受けられました。