(花園 祐:中国在住ジャーナリスト)
筆者の住む上海市は中国最大の経済都市であり、アヘン戦争を経た列強による開港以降、中国史において重要な政治舞台ともなってきました。
上海に縁のある日本の偉人、歴史上の人物は、実はそれほど多くはいないのですが、数少ない1人として挙げられるのが、長州藩の尊王攘夷運動を先導し、明治時代幕開けの直前に病死した高杉晋作(1839~1867年)です。
そこで今回は、高杉晋作の生涯にスポットを当てるとともに、彼が訪問した当時の上海の状況について紹介したいと思います。
長州藩の上級武士の家に生まれる
高杉晋作は1839年、長州藩士の高杉小忠太の長男として生まれました。高杉家は長州藩の中でも家格の高い家系にあり、下級武士出身者の多かった維新の元勲の中にあっては、やや例外的に高い身分の出身でした。
学校は、藩校の明倫館と、吉田松陰が主宰した私塾である松下村塾に通いました。その英邁さから松下村塾では期待を集め、禁門の変で亡くなった久坂玄瑞とともに塾生の二枚看板として持ち上げられるほどでした。
師の吉田松陰からは「玄瑞には一歩及ばない」などと評されていたそうですが、これは負けん気の強い高杉を発奮させるための指導だったとも言われています。実際に後年の高杉の行動を見る限り、負けん気が強かったという見方は間違いではなかったでしょう。