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1947年8月20日、ニュルンベルク医師裁判で絞首刑判決を受ける、親衛隊中将でヒトラー付き内科医だったカール・ブラント(写真:Shutterstock/アフロ)

(文:上昌広)

 夏休みが終わった。毎年、夏休みには私が理事長を務める「医療ガバナンス研究所」に大勢の若者がインターンにやってくる。その中には高校生もいる。多くは医学部志望である。

 今年は3名の高校生がやってきた。いずれも神戸市の灘高校1年生だった。私は1987年に灘高を卒業しているから、35年後輩にあたる。生徒の母親が、私の友人と高校の同級生というご縁で紹介していただいた。予想通りだが、この3名も医学部への進学を希望していた。

 灘高は医学部に進学する生徒が多いことで知られている。今春の入試では104名が医学部に合格した。うち京都大学に26人、東京大学に20人で、ともに日本一だ。

 灘高は1学年220人だから、卒業生の半数が医学部に進むことになる。この状況は異様だ。教員の中にも苦々しく思っている人が少なくない。

倉石先生は「灘の生徒は変わった」と言う

 灘高元教頭の倉石寛氏は辛辣だ。私どもが主催する『現場からの医療改革推進協議会シンポジウム』に登壇し、優秀な人材がバカになる例として「昔、陸軍参謀本部、いま東大理3」と揶揄したこともある。

 灘高は1960~70年代にかけて躍進した。1968年に日比谷高校を抜いて、初めて東京大学合格者が日本一になると、70年代は7回トップを占めた。東京以外の高校が日本一になったのは後にも先にも、この頃の灘高だけだ。

 倉石先生は1946年生まれ。長野高校から東京大学に進み、学生時代は学生運動の闘士として知られた存在だった。その後、灘高に日本史の教師として就職する。当時の雰囲気を知る最後の世代だ。

 倉石先生は「灘の生徒は変わった」と言う。多くの生徒が裕福な家庭に育ち、幼少時から塾に通う。ITを使いこなし、良識やマナーをネットで学ぶ。生徒は上品になった。悪いことをしたり、学校を批判する生徒は少なくなった。昼間から学校で酒を飲んでいた、中島らものような生徒はいなくなった。

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