「面白さ」とは何なのか? どうやったら生まれるのか? 作家の森博嗣氏が、そのメカニズムを考察する『面白いとは何か? 面白く生きるには?』(ワニブックス)を上梓した。「面白さ」を誰でも簡単に手に入れられるようになった時代に、本当に「面白い人生」のあり方について考える。(JBpress)
(※)本稿は『面白いとは何か? 面白く生きるには?』(森博嗣著、ワニブックス)より一部抜粋・再編集したものです。
個人の満足が「正義」の時代
社会の動静に関係なく、そもそも「満足」というものは個人的なものである。「みんなで満足する」ことがあるとしたら、言葉はやや不適切かもしれないが、それは一種の集団催眠のような幻想であって、一時的なもの、陶酔(とうすい)的なもの、洗脳された人たちが感じるもの、といえるかもしれない。
今の世の中は、その認識が一般的だろう。この理屈がまだ呑み込めない人は、年齢の高い方に多いと想像されるが、意識して改めた方が良い、というのが僕の意見である。現代では、個人で楽しもう、個人が自由に面白いことをして生きよう、がまぎれもない正義となった。
以前は、そういった個人の好き勝手にさせていたら、社会の秩序が乱れる、という考え方がメジャだった。富が一部に集中し、大勢から搾取して成り立っていた封建社会だったから、自由にさせていたら暴動になる、という恐れがあったためだ。
現在では、個人の権利が認められ、機会は均等に与えられるよう、法律で定められた。社会全体が豊かになったのは、人間以外のエネルギィが用いられるようになったからであり、機械やコンピュータの導入や発展によって、人間の労働が絶対的に必要ではなくなったからだ。
さらに、大勢が意見を交換できるような情報化社会になったことが、不正が行われにくい社会を作ったともいえる。こうして、ようやく個人の楽しみが、いけないことではなくなった。誰もが「面白い」と思うことを実行できる時代になったのである。
金額に比例して「面白さ」が増えるわけではない
大金を注ぎ込むほど、より大きな「面白さ」が手に入るが、しかし、金額に比例して「面白さ」が増えるわけでもない。これは、どんな商品にもいえる法則だが、高くなるほど、価値の増分は小さくなる。すなわち、頭打ちになる。2万円の食事は、2000円の食事の10倍も美味いしいわけではない。
またその差は、20万円の食事になると、さらに小さくなる。高い商品に金を使うのは、そのわずかな価値の差に満足できる精神の持ち主である。また、そのわずかな差でも、他者と比較することで優位性に満足できる人だ。
「面白さ」の際限はないものの、消費する金には限界がある。そんなに個人で稼げるわけではない。また、新たな「面白さ」に鞍替えすると、初期のコストパフォーマンスに優れた「面白さ」からスタートできるので、そちらの方がずっと楽しめる、ということになりがちである。
したがって、大衆はどんどん次の「面白さ」を求めるようになる。その需要に応えるように、つぎつぎと新しい「面白さ」が生産され、市場に送り出されるのだ。