アントウェルペンは、プロテスタントの都市でした。そのため、カトリック国であるスペインからの独立を目指すようになります。より正確に言えば、現在のベルギーとオランダにあたるプロテスタントの地域が、カトリックの信仰を強要したフェリペ2世に対して、1568年に独立運動を展開するようになります。

 そして1579年、北部7州が同盟を結び、1581年ネーデルラント連邦共和国として独立を宣言するのです。これがオランダ共和国です。

アントウェルペン商人のディアスポラ

 一方、やはりスペインからの独立をかけて対決していたアントウェルペンは、1585年にフェリペ2世によって陥落させられてしまいます。この時の降伏の条件として、アントウェルペンに住む非カトリックの市民は、アントウェルペンを立ち去るために2年間の猶予を与えられました。このとき、プロテスタントやニュークリスチャンの多数の商人が北西ヨーロッパの諸都市、特にアムステルダムに流出していきました。この他に重要な都市として、ロンドン、ハンブルクなどがありました。このような現象は、「アントウェルペン商人のディアスポラ(離散)」と呼ばれます。

 1585年によってアントウェルペンの他都市への移住が加速化されたことは疑いようのない事実ですが、最近の研究では、早くも1540年代から、アントウェルペンからアムステルダムに商人が移住していたことが分かっています。おそらく、他都市への移住もあったはずです。すなわちアントウェルペン商人のディアスポラは、16世紀中頃から続いていた現象なのです。カール5世もフェリペ2世も、それを止めようとはしませんでした。それこそが、彼らの帝国の衰退を招いたのではないかと推測されます。

 フェリペ2世の過ちは、アントウェルペンを陥落させたにとどまらず、アントウェルペン商人を中心とする帝国の経済システムを完成させられなかった点にあると私は考えています。アントウェルペン商人に逃げられ、経済システムを維持することが出来なくなったのです。つまり、フェリペ2世の帝国の没落は、銀の流出が原因ではなく、カトリックへの改宗を強要したために起きたアントウェルペン商人の流出にこそ原因があると考えるべきなのです。

 しかしこれは、ヨーロッパ全体からみれば、その経済成長に大きなプラスの効果をもたらしたのです。

 1600年頃になると、南ネーデルラント(現在のベルギー)からハンブルクへと移住する商人が増えます。その中核をなしたのがアントウェルペン商人であったことは間違いありません。

 アントウェルペンは他の諸都市に先駆けて取引所が設けられていましたが、アントウェルペン商人が移住したアムステルダムやハンブルクでも取引所が開設されるようになります。この後発の取引所に、アントウェルペン商人のノウハウや知恵が生かされなかったはずがありません。

 かつての研究では、取引都市が変われば、同時に大きな商業構造の転換もあったと想定されてきました。しかし実は、取引する商人の顔ぶれはほぼ同じで、現実には商業構造の転換と呼ぶほどの変化はなかったようです。

 近世ヨーロッパの貿易では、ある貿易港が衰退しても、別の貿易港がその代替港として活躍することは決して珍しくありませんでした。それは、商人の流動性が非常に高く、彼らは国境をやすやすと越え、別の貿易都市に移住していったからです。その代表例がアントウェルペン商人のディアスポラなのです。アントウェルペン商人は北西ヨーロッパに点在する重要商業都市に移住し、その都市や地域の商業的発展に寄与しました。彼らの商業技術・ノウハウ、そして商人ネットワークは、その地域の商人にも広まっていったのです。

 もし、フェリペ2世が彼の帝国の維持のためにアントウェルペン商人の移動を制限し、さらにもし1585年にアントウェルペンを陥落させていなかったならば、彼にとっては良かったのかもしれませんが、ヨーロッパ全体の経済発展はもっと遅れていたに違いありません。

 本人が意図したことではありませんが、「フェリペ2世なくしてヨーロッパの発展なし」と言えるのです。