トリエント公会議(Wikipediaより)

 キリスト教、イスラム教、仏教を世界三大宗教と呼びます。そのいずれも、宗派間の対立や内部での改革を経験しています。しかしその中で、16世紀に始まるキリスト教の「宗教改革」は、世界史の授業でも特筆すべき事柄として扱われています。いったい宗教改革は当時の世界にどのような影響を与えたのでしょうか。

 当時のカトリック信徒の人口は正確には分かりませんが、その分布ほぼ西欧に限られていました。それ以外のキリスト教会として、ビザンツ帝国にはギリシア正教会が、中東にはアルメニア正教会が、そしてアフリカにはコプト正教会などがありました。信徒の数からみれば、それらの中でカトリックが最大だったと考えられますが、ヨーロッパ全体を見ればすべての人々がカトリックの教えを信奉していた、というわけではありませんでした。

 さらに言えば、この当時の西欧はまだ世界の中心ではなく、アジアの中国やインドと比較するとまだ経済力は弱い地域でした。であるにもかかわらず、1517年にカトリック内の改革運動として始まる宗教改革は、なぜ世界的出来事と見做されるようになったのでしょうか。

ルターは意図してなかった「宗教改革」

 1517年にマルティン・ルターが宗教改革をはじめた当初、それは単なるドイツの局地的現象に過ぎませんでした。ルター以前にも、イギリスのウィクリフやベーメン(ボヘミア)のフスなど、カトリック教会のあり方に対して大きな疑問をもつ人々がいました。ルターはそのような人々に続いて、カトリック批判を展開したと言えます。ということは、ルター自身は、何もカトリック教会と袂を分かって新しい宗派を立ち上げようとしていたのではなく、あくまで教会内部の改革を進めようと考えていたのでした。

 ルターによる批判の矛先は、カトリックによる「贖宥状」の販売に向けられていました。贖宥状とは、日本では「免罪符」とも呼ばれるもので、金銭と引き換えに教会が発行してくれるこれを手に入れれば、それまでの罪が赦され、死んだ後には天国に行けるとされる証書のことです。しかし人々は、贖宥状に群がりました。そしてこれはカトリック教会にとっての重要な収入源になっていくのでした。

 もちろん聖書にそのような仕組みについて書かれた箇所はありません。カトリックが生み出したシステムだからです。ルターは、信仰とは、教会の教えではなく、聖書の教えに基づくべきだと考えたのです。