(花園 祐:中国在住ジャーナリスト)
夏の歴史集中連載として、旧日本陸軍を中心に強い影響力を発揮し、日本の戦前の歴史を形作ったエリート集団「長州閥」の栄光と衰退について3週連続でお届けしています。
第1回では、長州閥は「松下村塾の塾生 → 奇兵隊出身者 → 戊辰戦争功績者」という3段階を経て、基礎となる中心メンバーが固められていったことを紹介しました。第2回は主に政界を中心に、長州閥が台頭した明治期から、衰退へと至った大正期までの流れを紹介しました。最終回となる今回は、長州閥の牙城であった陸軍内における切り崩し工作と、長州閥なき後の陸軍内における派閥抗争、そしてその結末について紹介します。
(第1回)「近代日本を牛耳った長州閥はこうして形成された」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57016
(第2回)「陸軍を身内で固めた親玉、長州閥は『山縣』閥だった」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57082
長州閥の牙城だった陸軍
前回指摘した通り、長州閥とは実質的に、明治維新の元勲の1人である山縣有朋を頂点に置いた長州出身者による派閥でした。山縣の出身母体でもある陸軍では、特に長州出身者の影響力が強く、戊辰戦争において活躍した長州出身者がそのまま陸軍に移って在籍し、陸軍発足当初の要職の大半が長州出身者によって占められていました。
また、日露戦争において乃木希典や児玉源太郎といった長州出身の将軍が活躍したことから、国民の間で長州出身者に対する人気は非常に高いものがありました。ある意味、この明治末が長州閥にとって絶頂期とも言える時期でした。
ところが、やや時代が下った大正時代には、他ならぬ陸軍内で長州閥を排除する策謀がめぐらされるようになります。