坑内入口近くの壁は横筋が多いが、少し奥まった場所に行くと、垣根掘りの縦筋とは違うダイナミックな縦筋が目に付くようになる。この筋は専用カッターなどの機械によって掘られた跡だ。機械掘りに切り替えた後は、切り出す石の大きさも倍になり生産量も倍増したそうだ。壁の模様には多くの職人たちの汗とともに大谷石採掘の歴史が刻み込まれているのである。

壁の下半分が機械掘りの跡。鋭い縦方向の切れ込みがみえる

天井の黒ずみはカビ?

黒い水面から立ち上るようにライトアップの光が渦巻く

 坑内の奥まったところに、プールのような水が溜まっている長方形の場所がある。鈴木館長によると、水深は30m、水温は4度とのこと。見上げると、天井全体が黒ずんでいることに気付づいた。「湿気があるので、天井にカビが生えているんですね」とつぶやくと、鈴木館長から「いえ、天井はみんな黒いですよ。軍が寒さ対策でストーブを焚いたので、煤(すす)で天井が黒いんです」と、予想もしなかった回答が。

改めてよく見ると天井が黒い

 本記事冒頭の坑内写真も、よく見てみると天井が黒くなっている。

 大谷石採掘場跡は軍需工場として使われていた時期があったのだ。太平洋戦争末期の1945年3月から終戦を迎えた8月まで、関連従業員のほか旧制中学の学生や軍関係者など実に1万5000人もが、この地下空間で勤務していたというから驚きだ。坑内の寒さ、特に冬場は厳しいものがあり、防寒にストーブを焚いたようだが、どれほど効果があっただろうか。

 資料館展示室には、終戦後に米軍調査団が視察に来た際の写真が展示されている。上空からは発見できない秘密の工場があったことを米軍は把握しておらず、規模の大きさに驚いていたという。

 地下工場では、中島飛行機株式会社が開発した四式戦闘機「疾風(はやて)」の部品などが作られていた。ただ、他の工場で製造していた部品が揃わないなどの理由から、この工場の疾風が空を飛ぶことはなかった。

 現在も、軍の指示で掘り進めた隧道が坑内のあちこちに残っているようだが、立ち入ることはできない。過去の記憶は、過ぎ去った時間とともに採掘場の奥深く静かに眠っている。

 それ以前は陸軍の倉庫、戦後は政府が買い上げた米の備蓄など、この空間はさまざまな形で利用されてきた。

 大谷石地下採掘場跡は、過去の遺物を土台にしながら魅力ある場へと変える一方で、今の時を生きる人々へ訴えかける力をいまなお失っていない。写真だけでは味わえない、地下空間の持つ迫力を感じるために、現地へでかけてみてはいかがだろうか。