指導の原点は「いつ、どんな水を渡すのか」

「プロの世界に入ってくるような選手たちは、みんな才能豊かな者ばかりだが、入ったあとのことで言えば、本当にがむしゃらにやれる時期、一番伸びしろのある期間というのは意外と短い。<中略>ラクなことや楽しいことは、人を育ててはくれない。それは、次に頑張るためのご褒美でしかないのだ<中略>ただ、それにも優るものがあるのかもしれないと思うことがあった。あれは入団何年目だったか、クリスマスの夜、大谷翔平が一人でマシンを打ち続けていたことがあった。それを練習熱心のひと言で片付けるのは簡単だが、そこまで熱心になれるのにはやはり理由がある。彼はいつ訪れるかわからない何かをつかむ瞬間、何かというのはコツと言い換えてもいいかもしれない、その瞬間に接する喜びを知っている」

 僕は、栗山さんのような「チーム」ではなく1対1のパーソナルコーチ(編集部注:2010~16年まで長友佑都、現在はFC東京の久保建英、レアル・マドリードの中井卓大らプロサッカー選手をマンツーマンで指導している)として活動していますが、ここで綴られていることは、選手を指導する時につねづね感じていたこと。

 それがわかりやすく一語一句、すべて言語化されてることに衝撃を受けました。栗山さんはこの後の一文で、「野球がうまくなるコツというのは、自転車に乗るコツにも似ている」と書かれているのですが、技術の習得とは本当にその通りなのです。

 指導する側の視点で考えてみると、うまくなりたいと思っている選手たちに対して、「一番欲しいときに一番適切なものを渡せる」ことが重要になります。わかりやすく言えば、いつ「水」をあげるのか、それは「水」なのか「お茶」なのか「スポーツドリンク」なのか、ということです。

 特に「いつ」というタイミングというのは重要で、本文中では大谷翔平が打ち込んでいたことを例に出されていますが(「クリスマスの夜に一人黙々とバッティングマシンに向っていた」)、まさに「何か渡されたタイミング」だったのか、もしくは本人の気づきだったのか・・・。もし「何かを渡されていた」としたら、それは常に「渡すタイミングを見計らっている人」でなければ、「渡すタイミングに気づけなかった」でしょう。

 栗山さんはそれを「兆しを見逃さない」「野球の神様からのメッセージ」と書かれていますが、指導者が思いついたことを思いついたときに選手に話しても、選手には上手く伝わらないのです。