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(文:西野 智紀)

 本書の帯に、心惹かれるこんな一文がある。

“辞書編集とは“刑罰”である。”

 これは、『日本国語大辞典(日国)』の第二版編集作業中の1999年11月、小学館辞書編集部にふらりと現れた作家の井上ひさしさんが言い残していった話だ。真偽は不明だが、なんでも、19世紀のイギリスでは辞書編集が重い刑罰だったそうである。辞書編集は、語彙採集・用例採集、ゲラ(校正刷り)のチェックといった単調な仕事を繰り返すので、刑期を務めていると言っても過言ではない、というわけだ。井上さんは『日国』の随所に書き込みを施して自分専用の辞書にしてしまうほどの愛用者で、『日国』第二版刊行をめぐって社内が荒れているのを聞きつけ、編集部を鼓舞しに来たのだった。

 このとき編集長を務めていたのが著者だ。1980年の春に小学館系の出版社に就職し、辞書編集部に籍を置き、以後異動することなく辞書を編み続け、2017年に定年退職した。華やかな仕事ではないし、起伏に富んだ人生だったわけでもないが、世の中に辞書一筋の編集者がそんなにもいるとは思えないので、ことばと向き合ってきたこの37年間を書き残しておくのも少しは意味があるのではないか。そうして生まれた悲喜こもごもの回想録が本書である。

けっきょく辞書編集にずっと居続けた

 そもそも著者は、就職活動時、辞書編集ではなく文芸編集志望であった。ところが、小学館を含め出版社はことごとく落ちてしまい、たまたま募集を出していた小学館系の尚学図書という出版社になんとか採用されたのだった。出版業界に潜り込めたのは良かったが、会社が文京区後楽にあったため、子どものころから大好きだった神田神保町で仕事をする夢は叶えられず落ち込みもした。

 気持ちが揺れるなか辞書編集部に配属され、最初に行ったのは校閲による辞書への指摘や書き込みを自分でも調べて採用するか否か判断する仕事だった。人手不足だったとはいえ、辞書内容についての疑問を辞書編集経験のない新人が判定するのだから大変だ。しかしこの経験は後々の編集者生活で大いに活かされた。