もっとも駅站を運営していたのは、「站戸」と呼ばれる、民戸100戸ほどの人々で、彼らは土地税を免除される代わりに、食料や宿舎、馬を提供する義務を負わされていました。その経済的負担はかなり大きかったようです。
ともあれ、彼らの尽力もあり、モンゴル帝国は、大都を中心として、交通・通信網をユーラシア大陸の大半に整備することに成功します。駅伝制は、20世紀にシベリア鉄道が開通するまでは、ユーラシア最速の情報伝達システムであったと言われているほどです。これにより、ムスリム商人の隊商による陸路貿易が活発化するのでした。
このように、モンゴル帝国の支配者たちは、商業活動や情報伝達の重要性をしっかりと認識していたのです。
意外にも、海上交通網も発達した元代
またモンゴル帝国というと、ついつい陸上交通ばかりに目が行ってしまいがちですが、実は海上交通も高度に発展させていました。マルコ・ポーロは、『東方見聞録』の中で、浙江省の港市・杭州の繁栄をこう記しています。
<主要十街区では、どこも高楼が櫛比している。高楼の階下は店舗になっていて、そこでは各種の手芸工作が営まれたり、あるいは香料・真珠・宝石など各種の商品が売られている。米と香料で醸造した酒のみを専門に売る店もある。この種の高級店舗では品物が常に新鮮でかつ安価である>
杭州は、南宋の時代には臨安と呼ばれ、絹織物生産が盛んであったことで知られていましたが、元代になると、商業都市としても繁栄するようになっていたのでした。
また、福建省の泉州は、唐時代の初め頃からムスリム商人が訪れていましたが、元代になると南海貿易でひときわ繁栄します。こちらの様子は、イブン・バットゥータが『大旅行記』に次のように書いています。
<停泊港は、世界の数ある港のなかでも最大規模の港の一つ、さらに小型船に至っては、多くて数え切れないほどであった>
元は、基本的には陸上帝国でしたが、支配地域が広大だったこともあり、陸路を使った物流よりも、コスト的にメリットが大きい海路を使った物流を重視しました。元代には、毎年1000艘もの船が海運のみに使用され、海運によって生計を立てている船乗り・漕ぎ手が数万人いたそうです。それほど元代には海運が盛んになったのでした。こうして元は、軍事的にだけでなく、経済的にも他の追随を許さない強国となったのです。
交易網で結びついた地中海と元
陸路・海路ともに整備された元の時代の交易ネットワークは、当時の地中海で形成されていた交易ネットワークとも結びつきました。地中海の貿易はインド洋、さらには東南アジアまで伸びていました。ここに元が整備したネットワークが結合し、きわめて大きなネットワークへと発展したのです。