クビライがモンゴル帝国のハンの位を継承する際、その座を巡って40年以上にわたる抗争が起こりますが、14世紀初頭になって、モンゴル帝国から、キプチャク、チャガタイ、イルの3ハン国が分離されることになります。これらの諸国は、大ハーン(元の皇帝)の権威下に緩やかに連合します。こういうシステムを採用し、帝国が全体の統治を受け持つ仕組みを形成しました。
各ハン国の独立性は高く、そのためにそれぞれのハン国は競合関係にありました。だからこそ、無駄の少ない、経済効率的な国家運営ができたとも言えます。
経済成長を生み出した元の駅伝制
モンゴル帝国に見る「経済効率的な国家運営」とは、経済学的に言えば、公共財の供給をきわめて効率的に行うことで達成されていました。
例えばモンゴル帝国は、何度も対外的な戦争をしましたが、国内的にはその軍事力を盾に、他国が簡単には攻め込めない態勢を整えていたため、平和な時代が続きました。そのため、安定的な経済活動が維持されていたのです。
その証拠に、第4代皇帝のモンケ・ハンに、当時の都・カラコルムで謁見したフランチェスコ派修道士のウィリアム・ルブルックは、コンスタンチノープルから陸路、モンゴル帝国にやってきていますし、第5代のクビライに大都で謁見したマルコ・ポーロも、やはり陸路を使って現在の北京までやってきています。これは、それだけモンゴル帝国内の治安が保たれていた証です。
また、彼らが陸路での旅を遂げるための大きな支えとなったのが、モンゴル帝国の「駅伝制」(ジャムチ)でした。一言で言えば、陸路の整備です。
モンゴル帝国内の主要道路沿いには、およそ10里(20~30キロ)ごとに駅站(えきたん)が設置されました。駅站では、官命で旅行する官吏・使節などに食料や宿舎、乗り換え用の馬が提供されました。この駅站、最盛期には全国に1500もあったとされており、当時としては世界最先端の交通・通信網だったのです。
この制度があったからこそ、ルブルックもマルコ・ポーロもやってこられたし、モンゴル帝国が経済的に発展することもできたのでした。