これは海賊禁圧や密貿易禁止を目的とするものではありましたが、これにより他国との海上貿易は朝貢貿易に限られることになります。

海禁政策が招いた中国の悲劇

 ちょうどこのころは、ポルトガルがインド洋に到来した頃にあたります。東南アジアの海を駆け巡っていた中国の帆船・ジャンク船は500~600トンもある大きな船でした。それはポルトガル船よりも大型でした。ところが1600年頃になるとジャンク船は小型化し、200トンを越えるものはほとんど姿を消してしまいました。

 もし明が海禁政策を取っていなければ、ヴァスコ・ダ・ガマが16世紀初頭にインド洋に到着したとき、明はその地で強大な勢力を誇っていたはずです。そのため、ポルトガルもそう簡単にアジアで領土を拡大することはできなかったと言われます。明の海禁政策が、ポルトガルやオランダのアジア進出を容易にしたと考えることもできるのです。

 その後のアジアとヨーロッパの発展に大きな相違が生まれるのは、海運力で差が付いてしまったからです。ヨーロッパの船舶はアジアに進出してきましたが、中国の船舶はインド洋や地中海、大西洋に出ていくことを禁じられていました。中国は朝貢貿易を強化する道を選んだのです。

 朝貢貿易とは、朝貢国が貢物を中国皇帝に献上する代わりに、皇帝からそれをはるかに上回る価値の中国の文物を授けられるというシステムです。朝貢のためにやってくるのは当然中国船ではなく、朝貢国の船です。したがって貿易を朝貢だけに限定してしまうということは、自国の海上輸送網を衰退させることになります。このことが中国の歴史を大きく転換させることになるのでした。

 ただし念のために言っておけば、明代の中国は、穀物の生産が大きく増えましたし、長江下流域では養蚕や綿花栽培が盛んになり、絹織物や綿織物といった家内制手工業が広がるなど、経済発展は遂げています

 しかしその後の世界の覇権を握るには、海上輸送の力が必要でした。明代当初は、世界最高の造船技術と航海術を持っていた中国でしたが、「朝貢貿易を対外貿易の主軸に据える」という選択をしたため、せっかくの技術をさび付かせ、ヨーロッパ諸国に取り返しがつかないほどの遅れをとってしまうことになりました。

 将来を見通すのは本当に難しいことですが、選択を誤れば、後の世代に大きな負担をかけることになります。組織のリーダーたる人は、自分自身が想像している以上に大きな責任を負っていることを自覚してほしいものです。