知を織りなして「前提」を暴く

 もう少し続けよう。インターネットや人工知能の登場を理由に、「たくさんの知識はいらない、創造力さえあればよいのだ」という意見に関してだ。私は、“知識の乏しい創造力”というのは、偶然を除けば難しいように思う。創造するには、それなりの知識が必要だ。

 もちろん、教科書を丸暗記しただけの知識では何にもならない。それは単なる情報の集まりでしかない。知識とは、知と知の織物、「知」だと私は思う。教科書丸暗記の情報の集まりは、いわば、知という糸はたくさんあるけれど、地面に放り投げただけの、絡まりやすい糸クズのようなものだ。

 しかし知という糸同士を巧みに編めば、綾なす素晴らしい模様が描ける。知と知の織物、「知織」だ。知と知を巧みに組み合わせることで、布という画期的な商品が生まれ、模様という美しいデザインが生まれる。さらに、布というカタマリ同士を組み合わせれば、上着になったりズボンになったりスカートになったり帽子になったり。ただの糸クズではあり得なかった、素晴らしい商品が生み出されるようになる。

 しかし、そうした色とりどりの服飾が生まれるには、たくさんの糸が必要なように、素晴らしいイノベーティブな「知織」は、たくさんの知という糸を組み合わせなければできない。やはり、「知」はそれなりの量、必要なのだ。

 しかし肝心なのは、「知」が多いだけでなく、知と知を織り成す技術が必要だ。織る技術がなければ、「知織」は織れない。

 本稿がお伝えしたい、「教科書が暗黙のうちに前提していることを見抜け」ということも、そもそも予備知識がなければ難しい。だから、知識は必要だ。

 ただ、丸暗記という面白くない作業で知識を増やそうとするのではなく、「教科書に書かれていることは、前提条件が成り立つ時だけの狭い知識だ。その狭い了見を暴いてやる!」くらいの意地悪な気持ちで教科書を眺めればよい。おそらく、本庶氏が訴えたかったのも、そういうことなのだと思う。

 教科書を疑ったり信じなかったりするのではなく、教科書がどんな前提を暗黙のうちに隠しているのか、それを暴き出す探偵のような気持ちになってみよう。探偵になるには、推理を成り立たせるだけの知識も必要だ。そんな「探偵」がたくさん増え、教科書とは異なる前提条件で挑戦する人が増えれば、この国はもっとイノベーティブになるのではないかと期待している。