特徴を「観察」する

 子どもに「短所」はない。ただ「特徴」があるだけ。その「特徴」は、他の子には見られない「長所」でもある。それが短所に見えてしまうのは、大人の側がある価値基準を持ち、それを子どもに当てはめて評価するから。特徴が短所に見えるのは、価値基準にこだわるためだ。

「切る」という価値基準から見れば、カナヅチは能無し。「クギを打つ」という価値基準から見れば、ノコギリは能無し。しかしカナヅチはクギを打ち、ノコギリは切るという「特徴」を備えるのだから、妙な価値基準を押し付ける方がおかしいというのは容易に察しがつく。

 しかし、私たちは子どもに「価値基準」を当てはめて眺めることが多い。そのために子どもの「特徴」が短所に見えて仕方なくなり、それを直そうとする。しかし「角を矯めて牛を殺す」という言葉にあるように、特徴を否定された子は自分に誇りが持てず、心を閉ざすようになる。

 担任が父の話を聞いてから始めた「観察」こそが重要だ。その子を何かしらの「価値基準」に当てはめて断罪するのではなく、虚心坦懐に子どもの行動を観察し、その心理を推察する。すると、その子にどんな特徴があり、なぜそういう行動をとるのか、理由があることに次第に気がつく。

 何となく理由が見えてきたら、「この子はこういう言葉を求めているのではないだろうか?」と推察できるようになる。そしてそれを試してみると、それまでとは全く違う確率で、その子の心に沿う言葉が紡げるようになる。そうすると、短所が短所ではなく、特徴であったことに気がつく。

観察が価値基準から解放する

『荘子』に庖丁(ほうてい)という人物の話が出てくる。ダンスを踊るように一頭の牛をまるごと見事に解体する様子に驚いた王様。「さぞかしよく切れる刀なのだろう」と尋ねると、庖丁は意外な答えを返した。