「普通の料理人は牛を切ろうとします。すると刃が骨や筋に当たり、刃こぼれいたします。私は牛をよく観察し、筋と筋の隙間、骨と筋の隙間を見つけたら、そこにそっと刃を差し入れます。すると自然に肉はハラリと離れるのです。私は切らないので刃こぼれせず、もう何年も研いでいません」

 切ろうとしない。切ろうとすると、目の前の牛が目に入っているのに入らなくなり、「解体された牛」という脳内イメージに合わせようとしてしまう。目の前の牛を見ているようで見ていないから、筋や骨を無理に切ろうとしてしまい、刃こぼれしてしまう。

 しかし庖丁はまず目の前の現実の牛を「観察」した。牛は一頭一頭、骨も筋も形が違う。観察していると、筋と筋の隙間、骨と筋の隙間が見えてくる。そうなってから刃を差し入れる。まず「観察」が大事なのだと、『荘子』は教えている。

 子育ても同じ。脳内の「理想の子ども像」という「価値基準」にとらわれるのをやめ、子どもを虚心坦懐に「観察」すること。すると子どもの心と行動から「スジとスジのスキマ」が見えてくる。そこにそっと差し入れる「言葉」や「接し方」を試すとよい。

 もしあなたが、短所に思っているものがあったとしたら、それは短所ではなく特徴。カナヅチにノコギリの価値観(切れないのは能無し)を、またノコギリにカナヅチの価値観(クギも打てないのは能無し)を当てはめてもムダなように、特徴を何かの価値基準で断罪するのはムダなこと。

 腕のよい料理人は、見たこともない食材を「どう料理してやろうか」とワクワクする。そして「観察」する。生でかじってみたり煮たり焼いたり、干したり水に浸けたり。さまざまな「実験」をしてその様子を「観察」し、食材の「特徴」を見極めようとする。すると自然に「あれに使えそう!」と思いつく。

 子育ても同様にやってみよう。遊ぶ姿、寝るまでの過程、駄々をこねたり笑ったり、さまざまな様子を「観察」する。何かの価値基準という「色眼鏡」を外して、子どもの様子を虚心坦懐に。すると我が子の「特徴」が見えてくる。その特徴を生かせば、そのまま「長所」になる。