『盤上の向日葵』(柚月裕子著)は天才棋士が殺人の容疑者となるミステリー小説だ(写真はイメージ)

 たくさんの選択肢が、私たちの前にはある。いま私たちそれぞれが、この場所で「私」として存在していることは、連続した選択の結果である。つまり、人生のスタート地点から現在の自分自身までの無数の選択肢、アレコレを繰り返し、たどり着いたなれの果ての姿が、いまの自分だとも言える。折に触れて、私たちはそのことを思いだし、来し方へと思いを馳せる。いま、この場所に至るまでの経緯を、意識的に時間を巻き戻して考えてみてほしい。

 スタート地点に立ち、人生が始まったとは認識せぬまま、父や母の補助を得て歩み始めたこの道。物心がついて、いっぱしの反抗期を迎え、私たちは初めて自分で、人生の分かれ道をどちらに行くか決める。高村光太郎の『道程』という詩のように、自分で自分の道を切り開く愉悦に酔いしれ、選択の真の怖さに気づかずに、安易に、ほんの軽い気持ちで、より楽な道を選択したことの一回や二回、誰しも覚えがあるだろう。その結果、選択の怖さと重要性を知り、選択すること自体を保留することも覚え、時に傷つき、もしくは人を傷つけたりしたことも、あったかもしれない。だが、いつの間にか選択することに慣れ、いつしか選択そのものの本質に目を向けることなく、日々を過ごす私たち。だが、忘れた頃に過去の選択の亡霊が立ち現われ、ヒヤリとすることもしばしばである。

 最近、そんな選択の本質を突き詰めて考えさせられる機会があった。相手あることゆえ、詳しくは書かないが、何度も思い返し、ああすればよかったのか、いや、こうしないほうがよかったなど、考えても、考えても後悔は尽きることがない。

 そんな身を切られるような苦しみのなかで、初めて気づく。選択を、いつの間にか軽んじていた自分が抱えるこの苦しみの根源には、「もはや辿ることのできないもう一方の道の存在」があるのではないかと。

 選択の怖さ。いま、あなたが自分の立つ場所から人生を振り返ったとき、その背後に伸びるのは、当然あなたが通過してきた道である。それは、例外なく一本道であるに違いない。たとえば、2つあった選択肢の片方、この場所に来るときには、分かれ道として見えていたはずのもう1つの道は、選んだ道へと踏み出し、しばらく歩くと見えなくなる。その分かれ道が、存在したことは確かであるのに、その分かれ道に戻らない限り、もう一方の道は現れないのだ。少し行って、戻ればもう一度選択できるじゃないか。そんな声が聞こえてきそうだが、それもまた選択なのだ。戻るということを決めた、「小さな選択」の存在を忘れている。無情にも時間は過ぎているから、同じ状況の選択は二度とすることはできない。

 だから、選択は怖い。

 今回は、あなたの選択の幅を広げ、手助けをするかもしれない、選りすぐりの3冊を紹介する。・・・この3冊を選択し、おすすめしたことよって、私の未来の何かも変わるかもしれないが、そうなっても後悔することのない自信の3冊だ。

天賦の才をもつ将棋指しはどこで間違ったのか

◎『盤上の向日葵』(柚木裕子著、中央公論新社)

 気が遠くなるほどの選択の連続。導入文で、選択の重要性を説いておいてなんだが、そこに意識を向けすぎてしまうと、正常な精神状態ではいられなくなる。だから、私たちはしばしば選択という行為から、意識的に目を背けるのだろう。メリットとデメリットを瞬時に天秤にかけて、深く考えることなく、その時の気分で決定したりする。羽生善治は、そんな状況を積極的に肯定し、著書のなかで直感の8割は正しいと言った。選択自体を常に真剣に吟味し、脳みそをフル回転させて1つに絞ることを職業とする将棋指し。彼が言うからこそ、説得力をもつ。名言ではないだろうか。