二階堂ふみが妖艶に演じる室生犀星原作『蜜のあわれ』来年公開へ

室生犀星が、晩年の1959年に発表した小説「蜜のあわれ」が2016年、二階堂ふみと大杉蓮主演で映画化された。(c)『蜜のあわれ』〔AFPBB News

 閣僚の「失言」騒動などで、本当は4月、新学期早々に記そうと思っていた、現在私が手がけているプロジェクトに関わる話題を今回はご提供いたしましょう。

 4月に上梓した、黒田杏子編著による金子兜太さんとのCDブック「存在者・金子兜太」は、俳句の書籍としては前例を見ない音源を伴う本としてご好評いただき、おかげさまで重版の運びとなるようです。

 「俳句」という文芸は、良い意味で万人に開かれ、一部の特権的な詩人によるのでなく、あらるゆ人が、一銭のお金の準備もなしに「いま、ここ」から始めることができる、世界に冠たる日本の芸術と言っていいでしょう。

 「俳句を世界遺産に!」という動きがあり、私も微力ながらこれを応援しています。

 かつて1980年代、学生として海外からの客人を案内するおり、新聞の一面に毎日、大岡信さんの「折々のうた」が連載され、市民の投稿する俳句や和歌が毎週毎週全くの一般メディア各紙誌を賑わせている日本の日常を紹介すると、ほぼ例外なく「驚くべき文芸大国」と賛嘆されたものでした。

 「Haiku」や「Haikai」は、近年は各国言語にも訳されて、よりその実体が知られるようになってきました。

 「世界で最も短い文学」俳句を、連休でもありますので、親子でご覧になることを念頭に、3つほどの異なる角度から、一音楽家の観点でスケッチしてみたいと思います。

なぜ「季語」なのか?

 難しいことはおいて置いて、具体的に考えて見ましょう。

 俳句のようなものは、誰でもどこでも、何の準備もなく考えることができます。

 私の父は46歳の夏に末期がんの宣告を受け、実際に7か月後死んでしまいましたが、秋葉原の病院で、手持ち無沙汰に俳句のごときものを詠んでおり、面白くもおかしくもない素人吟ですが。

冷やしサイダーに 檸檬を落とし 甘露かな

正男

 などとやっており、当時小学校1年でしたが、私もあれこれ、目の前にあるものを5-7-5で詠んでみたりし、親父の葬儀ではそんなことが父の友達たちに知れ、葬儀の悼辞で紹介され買いかぶりで会葬者の涙などを誘っているのを、子供なりの冷静さで見ていたのを覚えています。