中国は、日本が南京攻略戦で市民30万人(今日では40万人とも言っている)を虐殺したと世界に喧伝してやまない。中国は日本を犯罪国家として断罪し、日本より優位に立って、国際社会の認知を受けたいという願望がある。
中国の歴史を見れば、地方軍閥や匪賊などが割拠して内乱が絶えず、いくつもの政権が乱立する状況が第2次世界大戦まで続いてきた。言うなれば、国内が統治されない、道徳的には地に落ちた無政府状態で、国家とも言えない社会でしかなかったからであろう。
支那事変(後に日中戦争とも呼ばれるようになる)は、そうした中で起きた日中間の抗争であった。国際法上認められていた日本軍の駐留と邦人の居住であったが、支那はワシントン条約体制の破壊を意図して、無法行動を取ることが多かった。
支那は国際連盟へ提訴せず
支那事変当時の国際連盟代表は顧維鈞であった。1919年の連盟創設当時からの代表で、米国のコロンビア大学で学び、米政界にも広く顔の利く国際人で、「支那の顔」とも言われていた。
もう1人、妖艶さと智謀で活躍したのが蒋介石夫人の宋美齢であるが、これについては項を改めて記述する。
1937年8月開かれた国際連盟18回総会に、中国は支那事変を提訴する。23か国による東亜諮問委員会に付託され、支那に対する支持とブリュッセル会議の開催を決める。
ブリュッセル会議では「日本に抗議する対日宣言文」と「南京・広東に対する日本の空爆を非難する案」が採択される。
翌1938年1月26日から第100回国際連盟理事会が開かれる。英仏ソ中の代表による「支那事変問題小委員会」も同時に開かれ、支那に対する国際的援助問題が討議され、非加盟国の米国の態度が消極的なため支那の思うようにはならなかったという。
南京事件が起きていたとされる日から約1週間後の12月20日付「ロンドン・タイムズ」が初めて、「大がかりな略奪、強姦される女性、市民の殺害、住居から追い立てられる中国人、戦争捕虜の大量処刑、連行される壮健な男たち」などと南京事件を報道するが、支那代表の顧維鈞自身はこの問題について本国からの情報などについて何一つ言及していない。
ようやく顧維鈞が事件について言及するのは2月1日で、それも1938年1月28日付「デイリー・テレグラム」紙と「モーニング・ポスト」紙の引用である。
「あまりにも多くの事件が中立国の目撃者によって報告され、外国の新聞で報道されているので、ここでいちいち証拠をあげるには及ばないでしょう。(中略) 南京で日本兵によって虐殺された中国人市民の数は2万人と見積もられ、その一方で、若い少女を含む何千人もの女性が辱めを受けました」という趣旨の演説である。
本国から事件の情報が直接顧維鈞にもたらされたのではなく、「中立国の目撃者による報告」が外国紙に掲載され、その報道を基に演説したのである。
「中立国の目撃者」とはカムフラージュで、実は蒋介石政府から資金援助を受けたり、国民政府の国際宣伝処に関わったりした人物たちであった。