円高と株価下落でアベノミクス正念場、政策失敗指摘する声

衆参両院の本会議で施政方針演説をする安倍晋三首相(2016年1月22日撮影、資料写真)。(c)AFP/KAZUHIRO NOGI〔AFPBB News

 4月10日付日経新聞の大石格編集委員のコラム「風見鶏」がなかなか面白かった。「衆参同日選、「寸止め」という選択肢」というタイトルで、次のような内容だった。

「同日選回避もあり得る」と日経コラム

 1983年は、12年に一度の統一地方選挙と参院選挙が重なる年であった。当時、中曽根政権だったが、統一地方選挙の後は地方議員の動きが鈍り、自民党は参院選でいつも苦戦していたそうだ。しかも、この年の秋には、有罪が確実視されていたロッキード事件で田中角栄元首相への一審判決が予定されていた。この2つの難題をクリアするには、衆参同日選挙しかなかった。事実、82年秋には、自民党最大派閥のオーナーである田中角栄から中曽根首相に「6月にダブル選挙をせよ」と厳命されていたという。

 だが中曽根首相は、83年4月に早々と「解散見送り」を表明、「野党も含めて政界は耳を疑った」そうである。事実、田中有罪判決後の衆院挙では、自民党は単独過半数を6議席下回り、新自由クラブとの連立でかろうじて政権を維持することができた。

 中曽根首相は、なぜ田中角栄の厳命を無視してまで同日選を見送ったのか。

 当時、田中角栄は、数の力によって自民党を支配し、「闇将軍」とまで呼ばれていた。この影響力を排除するために、あえて同日選をやらなかったというのだ。選挙後、幹事長は田中派野二階堂進氏から、鈴木派の田中六助氏に交代させている。田中派も竹下登氏らによる代替わりのクーデターが起こっている。この結果、田中角栄氏は影響力を急速に失い、中曽根氏は長期政権への道を開いたというのだ。