黙々と働く工員たちを見ながら微笑む井口さん

ゼネコン、銀行から工場経営へ

 早稲田大学で政治経済を学んだ井口さん。「豪快で男っぽい職場」というイメージに引かれ、ゼネコンの飛島建設に就職した。

 入社試験で英語の成績が良かったためか、半年間の英語研修を受けた後で経理部に配属されたが、空き時間には英字新聞を読んでいた姿が上司の目に留まり、27才の時に本社の海外事業本部へ異動。2日後には香港赴任を命じられた。

 ダイナマイトで山を爆破しては宅地を造成する40億円規模のニュータウン事業を手掛けた日々を、井口さんは「毎日が挑戦だったが、人生を形作ってくれた時期でもあった」と振り返る。

 1985年、2年半の滞在を終えた井口さんは、暑い香港から帰国したその足で真冬の新潟に降り立つ。中山素平をはじめ政財界の有力者が発起人となり1982年に開校した国際大学に、2年間派遣されることになったのだ。

 他の建設会社や銀行、証券会社、メーカーなどから派遣されたクラスメートたちや、各国からの留学生たちと机を並べて学び合う時間は新鮮で、彼らの生き方や考え方には大いに影響を受けた。

工場の1階には大型の自動裁断機が置かれている

 当時の仲間たちは世界のさまざまな業界や国々で活躍しており、交流を続けている。

 本社に戻った後、アメリカ西海岸やハワイで地元の財閥と組んで3年にわたりホテルなどリゾート開発を手掛けていたが、バブルがはじけて不動産不況に陥ったのを機に帰国。

 地元の常陽銀行に転職し、20年近く地域開発の業務に従事してきたが、60才の定年を目前に「もう一度、海外で仕事をしたい」との思いが募ってきたという。

 ハニーズとの出会いは、昨年6月、同社に勤めている元上司を訪ねた際に江尻社長に紹介されたのがきっかけだった。海外経験や英語力を買われ、「ミャンマーで新工場を建設し、事業を拡張することになったので経営をみてほしい」とじきじきに打診された井口さん。

 「若い女性向けの洋服はまったくの門外漢であり、最初は驚いた」ものの、「工場の経営を見ることならできるのではないか」と思い、転身を決意した。

 10月に入社し、2週間後にはヤンゴンに赴任していたというスピードからも、井口さんに寄せられた期待の大きさが伺えよう。香港やハワイの現場で現地の労働者たちと仕事をしてきた井口さんも、幸い、大きな抵抗感なくここでの仕事を開始することができた。