4年2カ月続けてきたJBpressの本欄連載を今回で終えることになった。2週に1回の連載だから全部で100本くらいは書いたのだろうか。最初は「マスメディア、特に報道の問題を書いてほしい」という依頼で書き始めたのだが、3.11が起きてからは、ずっと3.11、特に福島第一原発事故を書き続けた。私のわがままを快諾し、そのまま4年にわたって書かせてくれたJBpress編集部には感謝の言葉もない。本欄が初出媒体になり、その後書籍としてまとめた本も『報道の脳死』(新潮新書)、『原発難民 放射能雲の下で何が起きたのか』(PHP新書)、『ヒロシマからフクシマヘ 原発をめぐる不思議な旅』(ビジネス社)、『福島 飯舘村の四季』(双葉社)と4冊を数えた。来年早々には2年にわたる米国スリーマイル島原発事故の現場取材から、フクシマへの教訓をまとめた『フクシマ2046』をビジネス社から出す予定だ。本欄で連載してきたアメリカ取材の報告がここに収録される。

 ネットメディアの将来性や、編集部の報道への好意的な姿勢から、私はまだまだ続けたいのだが、編集部の意向とあっては従うほかない。今回はJBpress読者との「お別れ」ということで、私が本欄で実験してきた「投げ銭報道」のことを書いておきたいと思う。

無料で公開した災害現場のレポート

 3.11が起きた後、東京で私は「一刻も早く現場へ」とじりじりしていた。現地に入る公共交通は途絶していた。自家用車もなく、あっても現地で燃料を給油できるかどうか分からなかった。3月後半、青森県の三沢空港が再開したと聞いて、すぐに羽田から三沢に飛び、ハイブリッド車を借りた。燃料が持つ限りできるだけ遠くまで行こうと思った。青森県~岩手県の太平洋岸を八戸~久慈~野田村と南下していった。東京の雑誌編集部にはどこも接触しなかった。時間が惜しかったからだ。だから取材経費(交通費、宿代など)のあてもなかった。全部身銭を切った。

 ツイッターで知り合った八戸市在住の人が、取材先を紹介したりガソリンスタンドの情報を教えてくれたりして助けてくれた。ツテからツテをたどって野田村という小さな漁村に着いてみると、東京からのテレビや新聞の取材はおろか、地元紙の取材記者もほとんどいなかった。村の半分近くが壊滅した村では「ここまで来てくれた記者はあなたが初めてだ」と村人が喜んでくれた。村は絨毯爆撃を受けたようになっていた。想像を絶する破壊だった。「せめて自分が見た分だけでも、ただちに全国、いや世界に知らせないといけない」と思った。

 しかし、東京に戻って週刊誌や月刊誌の編集部を回って掲載を依頼しても、出るのは数週間後になる。手元には、その日目撃したばかりの、津波で破壊され尽くした村や、悲しみにくれる村人、救援に奮闘する人々の写真が、1日1000枚以上のペースでたまっていた。新聞・週刊誌記者として「取材したニュースは翌日または翌週に公開するのが原則」の世界で10数年年生きていた私は、もったいなくてイライラした。いや、それより何より、新聞やテレビなどマスメディアから忘れられた村の苦しみを、一刻も早く知らせたかった。