昨年、金融危機の発生で世界中が動揺した。自動車をはじめ基幹産業に不況が波及し、「派遣切り」に象徴されるように日本でも雇用不安が急速に広がった。

 これを好機と見たのか。金融危機を諸悪の根源と断じ、「欧米中心の金融帝国主義の秩序から日本は離脱すべきだ」という勇ましい論調が様々な国内メディアで踊っている。

 とりわけ農業系メディアの中には、世界貿易機関(WTO)加盟各国が合意を目指すドーハ・ラウンド(新多角的貿易交渉)から、「日本は離脱すべきだ」との主張さえ見られる。日本型農業を中核に据えた「共生経済」で生きていくべきであり、米国の多国籍企業に奉仕するために仕組まれた貿易・投資自由化の交渉から決別すべきだと言うのだ。「いじめっ子」が少しつまずいたから、うれしくて囃したてずにいられない気持ちなのだろうか。

 しかし、彼らの言う日本の伝統農業を核とする「共生経済」で、日本は一体何人を養えるのか。

 日本の国内総生産(GDP)562兆円(2007年度)のうち、輸出の「稼ぎ分」は89兆円にも上る。やはり、日本は貿易で食べているのだ。これに対し、農業のGDPへの貢献はわずか4.7兆円。就業者数6400万人のうち、農業は250万人に過ぎず、全体の0.5%にも満たない。食料自給率(カロリベース)は40%にとどまり、農産物を輸入しなければ日本の国民は今日から食べていけない。

 「ダンスの音楽が鳴り始めたら、みな踊らなければならない。自分一人が踊るのを止めたら、ダンスパーティーそのものが台無しになる」。今回の金融危機で大きな損失を被った米国のある金融機関経営者の言葉だ。既に日本は金融と貿易のグローバル化という壮大なダンスを踊っている。そして、パートナーがつまずいたとしても、ダンスそのものを止めるわけにはいかない。踊りで莫大な利益を享受しているのが、日本だからだ。

故橋本氏奮闘で発展したAPECが・・・

 2009年はオーストラリアのホーク首相(当時)がAPEC(アジア太平洋経済協力会議)構想を打ち出してから、20周年となる節目になる。

 1980年代後半、欧州は域内国同士の投資の原則完全自由化など、域内単一市場化を加速させていた。一方、88年には米国とカナダが自由貿易協定を締結。このため当時懸念されていたのが、地域統合による欧州と北米の経済ブロック化だ。その対抗策として、成長目覚ましいアジア太平洋地域が、協力と貿易投資自由化を進める場を設ける。それが、ホーク首相が提唱したAPEC構想だった。

 その後、APECは順調に発展を続け、94年にインドネシアのボゴールで開催された首脳会議では、参加国が貿易・投資自由化の長期目標をお互いに約束。「先進工業経済は遅くとも2010年までに、また開発途上経済は遅くとも2020年までに自由で開かれた貿易及び投資という目標を達成する」と宣言した。

橋本元首相が死去 - 東京

APEC大阪会合で阪神・淡路大震災復興を促した故橋本龍太郎氏 〔AFPBB News

 当時、このボゴール宣言への日本のコミットメントについて、中でも農業貿易の自由化に関しては、その実現性に疑問符が付けられていた。それを圧倒的な政治リーダーシップと豪腕で合意に導いたのが、自社さ3党連立の村山内閣で通産相を務めていた故橋本龍太郎氏だった。

 翌95年11月のAPEC首脳会議は、同年1月の阪神・淡路大震災で打撃を受けた大阪市で開かれた。橋本通産相はボゴール宣言をより具体的な約束とするため、合意形成に注力。大阪行動計画(OAA)を提案し、サービス分野を含む個別の自由化行動計画の策定に踏み出した。

 「今回、阪神・淡路大震災という事態の中で、今、関西経済圏に何か明るいものが欲しい、恐らく委員のお気持ちと我々の気持ちと変わるものではないと思います。このAPECの総会を成功させることができますなら、私は、それが大阪の名を世界に大きく知れ渡らせ、それが被災から復興に努力しておられるそれぞれの方々にも力強い夢を持っていただくきっかけにもなる」

 APEC大阪会合に先立つ95年2月17日、橋本通産相は衆院本会議の答弁を活用して、未曾有(みぞう)の災害から関西圏を復興させる強力なメッセージを発信した。ボゴール宣言の具体化策である大阪行動計画を、経済外交政策の目玉として打ち出したかったのだろう。ちなみに、この答弁を引き出した質問者は現経産相の二階俊博氏である。