「STAP細胞騒ぎ」ですが、内容の信憑性が疑われる英ネイチャー(NATURE)誌の論文そのものについては、関係各方面の詳細な調査の結果を私も待っています。

 気になるのは、事件に関しては「雑誌論文」よりも「博士論文」の中に無断で他の研究者の業績を剽窃している問題、またこうした事態に対する世の中の反応の方で、あきれ返るようなものが平気でメディアに載っているのも目にしました。放置すべきではないと思った点について、いくつか考えてみたいと思います。

「合格すること」に意義がある

 日本社会の教育制度は、率直に言って相当ネジが緩んでいると思います。とりわけ「入試」と「卒業判定」に関する逆転現象が最悪です。このまま放置すれば、資源のないこの島国、人間の能力が国の基本にしかなりようがない日本国の将来は暗くなる一方だと思います。

 国際社会の常識では(また日本で言えば、数少なく正気を保っている自動車教習所の例を挙げながら考えてみたいと思いますが)は「入学」は容易で「卒業」が難しいのが学校、特に大学というものです。

 入学試験というのは、ある人が学生として大学に所属したとして、所定の4年なら4年という年限で必要な内容を学び、身につけ、それを保証する最終試験に合格して社会に出て活躍する、そういう基礎能力を見るためのものであるはずです。

 自動車教習所であれば、入学試験は免除という場合が少なくない。学費を納めれば誰でも「学び始める」ことはできる。

 しかしスタートラインにつくというのは、ゴールすることと同義ではありません。ボストンマラソンに登録しました、という人がすべて「完走しました」ということにはならない。競泳であれば「よーい、ドン」と飛び込んだら、その先しっかり泳がなければ話になりません。

 日本の大学・大学院がもし、入学だけ厳しく、卒業はフリー出口の状態なら、率直に言って「自動車教習所の人材養成の質の管理」に遠く及ばないと認識しなければならないでしょう。

 さて、日本社会の大学というものの見方はどうでしょう?

 毎年「大学合格者」の名前は取り沙汰されますが「大学卒業者名」が週刊誌の誌面を延々埋める、なんて風景は日本では見たことがない。

 日本社会の現実は、入試に合格した段階で「早大生」とか「慶大生」、あるいは「京大生」「東大生」というものになるのであって、そこに価値があり、卒業その他にはほぼ一切感心がないことは、本音ベースで考えれば明らかでしょう。

 例えば、就職の内定が決まっている学生がいるとします。卒業単位が0.5だけ足りない、というようなとき、それを「おまけ」してもらうのが「美談」みたいに普通に語られる。社会は大学の卒業というものにはほとんど関心がない。