終戦から6年――。1951年5月、横浜港の大桟橋で20歳の青年が独り佇み、太平洋をじっと見つめていた。
もちろん、日本の外に出るのは初めて。働きながら英語は一生懸命勉強してきたが、本場で通用する自信などあるはずもない。敗戦国の若者は戦勝国の欧州でどう扱われるのだろうか――。考えれば考えるほど、不安は増幅されていく。
それでも、期待がその何倍も何十倍も膨らんでいた。「外国とビジネスを始め、日本を復興して発展させてやるんだ」――。「連合国総司令官の許可により・・・」と記されたパスポートを握り締め、フランス・マルセイユ行きの客船に乗り込んだ。
「波乱万丈」と形容するほかない、荒井好民(あらい・よしたみ)による「国際ビジネス戦記」の幕開けである。(敬称略)
「世界」に目覚めた軍国少年、ロンドン留学を夢見て・・・
システムス インターナショナル代表取締役会長、国際経営コンサルタント 1931年千葉県出身 53年英ピットマンカレッジ卒 55年日本生産性本部米国務省駐在員(ワシントン) 60年米国ソニー副総支配人(ニューヨーク) 62年ブルーチップ創設、専務を経て退社 69年米ハーバード大経営大学院AMP修了 77年東急ホテルズインターナショナル社長 太平洋経済委員会顧問、東商常任顧問、APECビジネス諮問委員会委員などを歴任(撮影:前田せいめい)
1931年5月、荒井は千葉県市川市で生まれた。典型的な軍国少年は「いずれは兵隊に徴られて戦死する」と信じて疑わず、陸軍幼年学校を目指す。しかし急性腎炎を罹ってしまい、受験を許されなかった。
地団駄を踏んでいると、ラジオから「ガー、ガー、ガー・・・」。1945年8月15日、日本の降伏を伝える玉音放送は、「ラジオの品質が悪く、よく聞き取れなかった。でも悔しくて悔しくて・・・」。まさか将来、自分がメイド・イン・ジャパンの高性能ラジオを外国へ売り込みに行くとは、14歳の少年が想像できるはずもなかった。
敗戦後、軍国少年は「世界」に目覚め、高校を出たら奨学金を得て米国に留学しようと決断した。ところが大学卒業後の修士課程でなければ受給できないと分かり、がっくり肩を落とした。
ところが、失意の荒井を知り合いの婦人が慰め、ロンドン留学を勧めた。学資や渡航費用を稼ぐための仕事まで紹介してくれたのだ。英国系商社の東京事務所で2年間働き、英語の習得と貯蓄に励んだ。その商社が身元保証をしてくれ、ついに渡英が実現した。
ロンドンは瓦礫の山、ドイツには「ピカピカの貨車」
横浜~神戸~マニラ~香港~サイゴン(現ホーチミン)~シンガポール~ジブチ~スエズ運河~マルセイユ
当時、欧州へ行くにはこの航路しかない。31日間の長くてつらい船旅だが、再び荒井には「女神」が現れた。隣室の占領軍将校の夫人が母親のように青年の面倒をみながら、英語をみっちり教えてくれたのだ。