「実存する児童でないことから児童へのいかなる被害もなく、その非難可能性にも相当な違いがあるものと思われる」「仮想児童ポルノ物の配布行為は、実存する未成年者への法益の侵害がない場合であることから、法益を侵害した実在未成年者の性表現物の配布行為と同じ刑罰で処罰することは平等の原則に反する」*7
インターネット倫理と表現の自由
問われていることは、第一義的には「インターネットの自由と倫理」だ。
仮想のものを実際の行為と同じと見なして処罰するということは、実体のない思想・想像を罰することになり、表現の自由を直接侵害する。ある害悪を想像することと、その害悪を犯すことは、全く別のもののはずだ。
さらに問われていることは、マンガの絵を禁じ、ネット上のポルノ規制がどうこうと論じることと同時に、大人の性欲の犠牲となっている現実の子供たちを救済し、明らかな犯罪を根絶する努力が払われているのか。マンガを禁じること自体が抜け道になっていないのか――という社会の実情の問題だ。
さらに、問題をもっと根源的に突き詰めるとすれば、現代社会の「性」のとらえ方、「性」をどう認識しているのかということにも抵触するかもしれない。
統治の手段としての性の抑圧
「人間の性」は歴史的に、国家を統治する者らが社会を抑圧する手段として利用してきた。欧州では中世まで、教会権力が女性の性、特に若い女性の処女性をも厳重に管理してきた。教会の教えではしばしば性は不潔であり、悪であり、セックスから悦びを得てはいけない、女性は官能的であるが故に制御されなければならない等とされて道徳的に拘束された。女性の性は「男を惑わすもの」とされ、レイプをした側ではなく、犠牲となった女性の方が厳しい罰を受けたりもした。
この「女性の性」は、現代においても蔑まれ、性本来のあり方が大きく歪曲されたままなのではないのか。
小学生の息子はインターネットで日本のアニメを見ているが、動画の脇にはほぼ必ず大きく脚を開いた少女のマンガの絵が、「本格エロゲー」とかいった広告とともに入っている。子供たちは日々、ポルノまがいの映像を、ほぼ強制的に見せつけられている。そこでは少女たちは常にあられもない姿で辱められている。