日本経済新聞の記事(2010年5月15日付)によれば、台湾TSMCのモリス・チャンCEOは、「20年後に生き残っている垂直統合型半導体企業(IDM:Integrated Device Manufacturer)は米インテルと韓国サムスン電子だけ」と予測した。
筆者は、モリス・チャンの予測に安易にうなずきたくない。しかし、DRAMで日本半導体を抜き去ったサムスン電子の背中が、現在においても年々遠ざかっていることは疑いようもない事実である。なぜ、サムスン電子はここまで強大になったのか?
サムスン電子が「メモリー王国」となった競争力の本質は
サムスン電子の競争力の源泉には、李健熙(イ・ゴンヒ)会長の強力な経営手腕がある。1987年にサムスン・グループの会長に就任した李氏は、「妻と子供以外はすべて変えろ」をスローガンに新経営方針を提唱した(『サムスン高速成長の軌跡──李健煕10年改革』 キム・ソンホン、ウ・インホ著)。その一例として、朝7時出社、16時退社を徹底した(ちなみに半分冗談だが、日本半導体の経営トップの態度は「妻と子供以外は一切変えたくない」ように見える)。
李氏は2008年に一旦会長を辞任したが、2010年3月に再び会長職に復帰した。そして、「今が危機、サムスンの未来は分からない」と発言した(「東亜日報」2010年3月25日付)。
常に社員と組織に変革を求め、緊張感をもたらす。その強力なリーダーシップには脱帽するほかない。
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この李会長の経営の下、サムスン電子は、1992年、DRAM世界市場シェアで東芝を抜いてトップに立った(図1)。その後、98年に韓国メーカーの現代電子に1度だけ首位の座を奪われたが、現在に至るまでシェア1位を堅持している。また、東芝が発明したNANDフラッシュメモリーにおいても、世界市場でシェア1位の座を維持している。
李会長は、どのようにして「メモリー王国」サムスン電子を築き上げたのだろうか?
80年代中旬、日本半導体は、メインフレーム用の「25年保証の高品質」DRAMを生産することにより、シェアで世界一になった。86年は、世界のDRAMシェアランキングで、上位5社を日本メーカーが独占している。
ところが、80年代後半から90年代にかけて、コンピューター業界に変化が起きた。メインフレームに代わってPCが上位市場になった。この傾向に合わせて、サムスン電子はPC用のDRAMを安価に大量生産した。より少ないマスク枚数で、より小さなDRAMを、より安価に生産したその技術は破壊的であった。その結果、本コラムでも詳述したように、過剰技術で過剰品質を作ってしまった高コストな日本のDRAMは駆逐されてしまった。