21世紀の日本で「罪悪」に関してアンケート調査を行うと、日本国憲法に記されている内容とは似ても似つかないものが「世論」のようにして現れます。

源頼朝(ウィキペディア

 例えば「信賞必罰」「喧嘩両成敗」といった古くからの道徳訓と並んで「目には目を」という復讐法的な善悪感、さらにそれを直接行う「あだ討ち」への親近感(「忠臣蔵」などに見られる)や、武士にのみ許された「あだ討ち」以外は「おおそれながら・・・」と「おかみ」に訴え出て、そこで「ご沙汰」を「下していただく」といったメンタリティ。

 こうした全般が「関東御成敗式目」の定めと、面白いほど符合を見せていることに、前回触れてみました。

 鎌倉幕府以来のこの「ご成敗」のあり方は、なぜ現在のような形で固まってしまったのでしょう?

 また、こうした「無形の封建遺制」が憲法をはじめとする現行法と、どのような局面で抵触する可能性が出てくるのか?

 鎌倉幕府は本当に武士支配?

 「関東御成敗式目」が日本全国に普及したのは鎌倉幕府の成立直後のことではなく、すでに源氏嫡子は滅び、京都から名目だけの親王将軍を迎えての北条執権家支配期以後のことです。

 中学や高校の教科書では強調されないけれど、この事実はいくつかの興味深い横顔を持っています。何よりも強調しなければいけないのは、なぜ「親王」を将軍に迎えたのか? ということでしょう。

 学校ではこう教えます。「平安時代までは貴族の支配」「いいくに(1192)つくろう 鎌倉幕府 以降は武家の時代」「明治維新で日本は近代化」などなど。

 しかし、鎌倉時代の大半「武家の支配」であるはずの鎌倉幕府の長は、仮に名目だけであったとしても、天皇の息子や甥といった京都の貴族層、早い話が「皇族」を迎え続けていたわけです。これのどこが「武家の支配」の時代なのか?