堺の鉄砲鍛冶(ウィキペディア

 2000年近くに及ぶ日本の歴史を振り返っても、民衆が直接、地域を統治した時代というのはそんなに多くありません。

 早い話が、1945年以降の現在の体制にも、国民主権と言いながら象徴天皇が存在するし、立法府も代議制です。

 民衆の代表者が直接国を治めた時期はむしろ、近世初期に見られます。応仁の乱によって古代から中世にかけての統治機構が崩壊し、同時に新たに入ってきた様々な産業や経済の力によって成長した地域・・・例えば南蛮貿易で栄えた堺の町衆統治などは代表的だと言えます。

 そこには古代中世の荘園統治とも、江戸幕藩体制の島国根性封建制とも違う、ある開かれた文化が存在していました。

 これとはやや違うものの、もう1つ、特異な統治機構として存在したのが「加賀の一向一揆」です。中世からの為政者、守護の富樫氏を追放し、ほぼソビエト連邦と同じ程度の期間・・・世代にすれば2~3ジェネレーション・・・長老支配によって国が治められた。

 日本史的に考えて極めて特異な時代です。

 ここでもう1つ注目すべきことは、一向一揆が「浄土真宗」という宗教道徳によって規律されるパワーであったということです。

 確かに「統治」というリアルな政治に関わりながら、同時に一向一揆は、浄土教による宗教支配、神聖支配という横顔も持っていました。

 この「神聖支配」はもう1つ、ほかの戦国大名には絶対に存在しない特徴を持つものでした。他国への浸透です。

キリシタン狩りと門徒狩り

 九州各地を訪ねると、隠れキリシタンを弾圧した歴史が随所に残っています。なるほど、ご禁制の切支丹伴天連の類です、豊臣秀吉時代中期から幕藩体制期全体を通じて、クリスチャンが日本で生活し得る場はなかった・・・と一般には思われています。

 が、実のところ「隠れキリシタン」は地元では公然の秘密で、平戸や生月島など独立した切支丹地域ではカクレとは言いながら「辻の神様」(「しんにゅう」の中が十字架であるのに注意!)はかなりおおっぴらに信仰されていました。

 この話も大変興味深いのですが、別の機会に譲るとして、鹿児島などでは「切支丹」の弾圧と並んで「真宗門徒」の弾圧も行われたことが記録されています。