前回、「平安時代の日本には死刑はなかった」が法務省にちっとも説得力がない、という所から、欽定憲法は天皇から臣民に「下賜」されたもので、国権にブレーキをかけるコンスティテューションとしての性格をちっとも持っていないことなどを確認してみました。
では、今日の日本社会で、成文法以前に共有されている(らしい??)常識的な正義の感覚はどこに遡ることができるのでしょうか?
その1つの起源として、平将門や藤原純友などの「悪党」つまり武士の叛乱に言及しました。
後年の「斬り捨て御免」にも通じる、殺人の具である大小の刀を差した「武士」とは、暴力を背景に「おのれが法である」として、実力で地方を掌握した人々でした。
これに対して、都から派遣されてきた国司、律令制度の下での「国衙」は、力の支配とは別の権威と知識によって、租税の徴収を自己正当化していたのです。
聖徳太子と秦河勝
前回、国家公務員の従うべき道徳律としての「十七条憲法」の性格についてお話ししました。この「聖徳太子」という人は、いろいろなものを臣下に「下賜」することになっています。
観阿弥・世阿弥親子の「観世家」の家伝として能楽の原点を説いた「風姿花伝」など観世流の「伝書」には、66の物まね芸を聖徳太子が秦河勝に「下賜」された、という話が登場します。
この秦河勝という人は、「ユダヤ人など白人だったのでは?」という説が濃厚に囁かれるなど、古代でも一、二を争う謎めいた人物の1人で、この人と「猿田彦伝説」「猿楽」「天狗」といった存在との関連に私は長らく興味を持っているのですが、いまお話ししたいのはそういう面ではなく、彼らの故地であった西京三条あたりの地域、今日でいう「太秦」です。
「太秦」と書いて日本語では「うずまさ」と読ませる。何をどう勘違いすると、こういう訓読みになるかは置いておいて、東映の時代劇など映画村のあるところとして広く知られています。
太秦の中心は聖徳太子の命で秦河勝が建てた「広隆寺」ですが、これも「太子から河勝に<下賜>された」仏像が発端になっています。