キリスト、イスラム、ユダヤ教徒が集う祈りの施設 独ベルリン

ドイツのベルリンで「祈りと学びの家」の建設予定地に立つキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖職者ら(2014年6月3日撮影)〔AFPBB News

 教育の対象って何なのでしょう?

 特に、社会のためになる「教育」とはどういうものか?

 突き詰めて考えれば考えるほど「女子にこそ高度な教育を」という結論にならざるを得ない、というお話です。

カトリック教会のミッション戦略

 具体的な例から始めましょう。江戸時代末期、日米修好通商条約などが結ばれ、禁止されていたはずの「キリシタン・伴天連の類」が再び日本に上陸し始めます。

 文久2(1862)年、横浜のフランス人カトリック宣教師が長崎に派遣され、戦国時代1597年に殺害された26人の殉教者が聖人とされる、など、日本へのキリスト教再布教の準備が整えられ、1863~65(文久3~元治2)年にかけて建設されたのが現在も残る国宝・大浦天主堂にほかなりません。

 これはあくまで、日仏修好通商条約に基づくフランス人のための教会堂でした。ところが建堂の翌月、潜伏していた隠れ切支丹が名乗りを上げ始めます。明治新政府は維新直後、短期間は切支丹を弾圧しますが(「浦上四番崩れ」など)やがて外交上の便利も念頭に布教が許可され、パリ・ミッションによる本格的な活動は始まります。

 中心となったのはマルク・マリー・ド・ロ神父、現在でも「ドロ様」として慕われるカトリックの修道者でした。

 ドロ神父は自ら教会堂を建設(出津教会)し、信徒を教育して識字率を上げ、そうめんの製造など(現在もドロ様そうめんとして販売されています)授産施設を充実し貧困撲滅に取り組むなど、地域の発展に本質的な貢献を果たします。なかでも、最も重視した1つが「女部屋」でした。

 「女部屋」おんなべや、とはまた、単刀直入なネーミングですが、これは現在で言えば小学校から高校くらいまでの年齢の女子を集め、読み書き算盤、その他基本的な教育を施す、言わば全寮制の学校のようなものでした。

 江戸時代の隠れ切支丹集落は極端に厳しい条件の場所に設けられ、ドロ神父が活動した出津などの地域も住民の経済力は弱く、住民の生活は苦しいものでした。