帰化したのは日本への愛ではない?
明治27年(1894)10月、ハーンは熊本第五高等中学校を辞して、英字新聞社の神戸クロニクル社に転職し、セツら家族を連れて、神戸に赴任している。
そして、明治29年(1896)2月、45歳の時、ハーンは法的な手続きを経て帰化し、セツと正式に入夫婚姻を遂げ、小泉八雲と改名した(以後、八雲と表記)。
詩人の萩原朔太郎によれば、八雲が帰化したのは、日本を真実に愛したからではなかったという。
この頃の八雲は、すでに日本を「夢の国」としては見ていなかった。
「西洋の国々と同じく、ここにも醜い生存競争があり、常々、不義や奸計が行なわれている」と、現実社会としての日本を見ていた。
もし、八雲に妻子がいなければ、日本に幻滅した日に、まだ知らぬ新しい国を求めて、旅立ったに違いなかったという(以上、萩原朔太郎「小泉八雲の家庭生活」『萩原朔太郎全集 第8巻』所収)。
夢の国ではなくなった日本にとどまった八雲は、自分の死後、財産が愛する妻子に相続できるようにしたいと望んだ。
八雲にはアメリカに実弟、ロンドンに異母妹がいるため、英国籍をもつ八雲が死去した場合、遺産相続に問題が発生する可能性があった(小泉凡『セツと八雲』)。
これを避けるために、複雑な手続きを経て、八雲がセツの戸籍に入夫する形で正式に結婚し、日本人「小泉八雲」が誕生したのだ。
当時、現地の日本人と同棲した西洋人は多かったが、妻子のために帰化までした者は珍しかった。