東京とフロックコート

 明治29年(1896)9月、八雲の帝国大学文化大学講師就任に伴い、セツや一雄らも、神戸から東京に転居している。

 セツによれば、八雲は東京を好まず、地獄のような所だと言っていたという。

 一方でセツは、東京を見るのが、かねてからの願いであった。

 八雲が東京行きを決めた理由の一つは、セツに東京見物をさせることだったという。

 神戸から東京に移るに際して、セツははじめて八雲のフロックコートを作っている。

 八雲はハイカラで、折り目の正しい服が嫌いだった。

 フロックコートも「なんぼ野蛮の物」と厭うていた。

 そのためセツは、「大学の先生になったのだから、1着は持っておかねばなりません」と頼み込んでフロックコートをあつらえ、嫌がる八雲に4、5回ばかり着させたという(以上、小泉節子『思ひ出の記』)。

「フロックコート着る。東京に住む。皆あなたのためです」と、八雲がぼやくこともあった(萩原朔太郎「小泉八雲の家庭生活」)。

 八雲の犠牲的ですらある献身的な愛情に対し、セツは、「私ども妻子のためにどんなに我慢もし、心配もしてくれたか分りません。気の毒な程心配をしてくれました。帰化の事でも好まない奉職の事でも皆そうでございました」と、『思ひ出の記』のなかで語っている。

美しいシャボン玉

 八雲は最初の頃、セツの手が荒れているのを痛ましく思い、ヒビ割れた手を自分の白い柔い掌で撫でさすりつつ、「あなたは貞実な人です。この手その証拠です」と労った(小泉一雄『父小泉八雲』)。

 寝る前には必ず、「プレゼント、ドリーム」と言い合った。

 セツが外出すると、八雲は赤ん坊が母を慕うようにセツの帰りを待ち続けた。セツの足音を聞くと、「ママさんですか」と大喜びし、帰りが少し遅れると、災難に遭ったのではないかと心配した。

 など、セツと八雲には微笑ましいエピソードがたくさんある。

 だが、繊細な八雲は、箪笥を開ける音で「私の考え、こわしました」などと言い出すこともあり、セツは引き出しもそうっと静かに開けるなど、気を遣うこともあったようだ。

 セツはそんな時、「あの美しいシャボン玉をこわさぬように」と思うと、叱られても腹が立たなかったという(以上、小泉節子『思ひ出の記』)。

 二人の恋は、儚くも美しいシャボン玉のようなものだったのかもしれない。