鹿子木孟郎《婦人像》個人蔵
(ライター、構成作家:川岸 徹)
近代の日本洋画に本格的な「写実」表現をもたらした鹿子木孟郎(かのこぎ・たけしろう、1874-1941)。生誕151年を契機として、その足跡をたどる特別展「生誕151年からの鹿子木孟郎―不倒の油画道」が泉屋博古館東京で開催されている。
一世を風靡した「白馬会」の明るい画風
19世紀末から20世紀初頭にかけて、日本近代洋画壇のスーパースターとして君臨した画家・黒田清輝。黒田は1884年にフランスに渡り、ラファエル・コランに師事。自然光のもとで色彩豊かに絵を描く「外光派」のスタイルを吸収し、日本へと持ち帰った。黒田は1896年に美術団体「白馬会」を結成。白馬会の画家たちは従来の暗く重々しい日本の洋画とは対照的な、印象派風の明るい作風を目指した。
白馬会の新しい表現は若い世代に熱狂的な支持を集め、彼らは「新派」と呼ばれるようになった。こうした新勢力は旧勢力によって潰されてしまうのがよくある話だが、「新派」はそうはならなかった。というのも、黒田は白馬会を結成した同年に東京美術学校の教員に就任。その2年後には西洋画科の教授に昇格している。黒田は教育者として画壇に強い影響力を持っていたのである。
しかも、黒田は育ちがいい。当時の日本には倒幕派の藩出身者を“勝ち組”、佐幕派やその他の藩出身者を“負け組”と見る状況が残っていた。薩摩藩士の家に生まれた黒田清輝はむろん“勝ち組”。画壇の権威となるには申し分ない家柄の人物であった。
古典的な写実表現を追究する「不同舎」
では、“負け組”を代表する画家といえば誰であろうか。それが今回の主役、鹿子木孟郎である。孟郎は1874(明治7)年、旧岡山藩士・宇治長守の三男として生まれた。だが、当時はいわゆる“没落士族の時代”。父親は社会の変化に対応できずに、資産を失ってしまう。7歳だった孟郎は叔父である鹿子木甚兵衛の養嗣子となり、鹿子木姓を名乗り始めた。
鹿子木は14歳から洋画を学び始め、18歳で上京。日本で最初に本格的な西洋絵画を教えたイタリア人画家フォンタネージに学んだ小山正太郎が主宰する画塾「不同舎」に入門した。不同舎では伝統的な写実表現を重視しており、鹿子木は小山の指導のもと鉛筆デッサンに励む。東京府周辺の風景を写生して歩き、鉛筆の線と濃淡のみで遠近感や空気感、光の移ろいまでも捉える高い描写力を身につけていく。
画家として生きていくために必要なスキルを得た鹿子木であったが、時流には乗れない。時は黒田清輝を中心にした「新派」の時代。不同舎が教えていた絵画は古典的な趣が濃く、新派に対して「旧派」、あるいは重々しい色調を揶揄されて「脂(やに)派」と呼ばれた。鹿子木は図画教師となり、滋賀県尋常中学、三重県尋常中学、埼玉県師範学校と、各地を転々としながら画学生を指導した。

