藤田嗣治《子供2人》1955年 東京藝術大学所蔵
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(ライター、構成作家:川岸 徹)

乳白色の下地に描いた絵画で一世を風靡したエコール・ド・パリを代表する画家・藤田嗣治。そんな藤田の芸術を「写真」をキーワードに再考する展覧会「藤田嗣治 絵画と写真」が東京ステーションギャラリーで開幕した。

エコール・ド・パリの寵児、藤田嗣治

ドラ・カルムス《藤田》1927年 東京藝術大学所蔵

 1913年、フランスに渡った藤田嗣治(1886-1968)はパリ・モンパルナスのアトリエ長屋「シテ・ファルギエール」で暮らし始めた。当時のモンパルナスは、世界各地から画家が集まる“芸術家の街”。シャガール(ロシア)、モディリアーニ(イタリア)、キスリング(ポーランド)、パスキン(ブルガリア)。20世紀初頭はセーヌ河を挟んで対岸のモンマルトルが芸術家の街として知られていたが、家賃や物価が上昇したため、若く貧しい画家たちはモンパルナスに移り住むようになった。ピカソ(スペイン)もモンマルトルからモンパルナスに移住したひとりである。

 ほかの画家と同様に、藤田嗣治も貧乏暮らしを余儀なくされた。藤田は陸軍軍医の父を持ち、裕福な家の出であったが、1914年に第一次世界大戦が開戦すると日本からの送金が滞ってしまう。寒さを凌ぐために、描いた絵を燃やして暖を取ったこともあったという。

 それでも藤田は若き画家たちと交流を重ね、刺激を受け合いながら、独自の画風を模索していく。1917年にシェロン画廊で初の個展を開催すると、110点の作品は完売。ピカソは藤田の作品を見て、「数年後、藤田の絵はマティスと自分(ピカソ)の間に挟まって、壁に掛かることになるだろう」と絶賛した。

 そして1921年、藤田は第14回サロン・ドートンヌにて初めて裸婦を発表。乳白色の下地に線描でモチーフを描く独創的なスタイルは大絶賛で迎えられ、藤田は「エコール・ド・パリ」を代表する画家になった。第二次世界大戦前のパリでは「フジタを知らないフランス人はいない」とまで言われたという。