欧州を目指す“負け組”の戦略
鹿子木孟郎《厨女図模写 (原画ジョセフ・バイユ)》1901-03年頃(明治34-36) 泉屋博古館東京(後期展示)
教師として生活費を得ていた鹿子木だが、やはり夢は画家として身を立てること。そのためには欧州へ留学し、本場の油彩画を学ぶ必要がある。金銭的な余裕はなかったが、鹿子木は不同舎の仲間たちと渡欧を決意。そこには“負け組”の意地と戦略があった。
1900(明治33)年、鹿子木は不同舎時代の友人である満谷国四郎、河合新蔵、丸山晩霞とともに欧州に向けて出発。当時、欧州へのルートはスエズ運河経由の船便が一般的だった。黒田清輝をはじめお金のある“勝ち組”はスエズ運河を通って直接ヨーロッパへ渡ったが、鹿子木はアメリカ経由のルートを選択。横浜から太平洋航路でアメリカ西海岸に渡り、大陸横断鉄道でボストンへ。先発隊として先にボストンへ入っていた吉田博や中川八郎らと合流し、ボストン・アート・クラブにて「水彩・素描展」を開催した。
当時のアメリカはジャポニスムがブームになっており、彼らの作品はよく売れた。羽織袴を着用した彼らのファッションも注目を集めたそうだ。現地のニーズを把握した、見事な戦略。彼らはその後もアメリカ各地で展覧会を開き、その収益をヨーロッパへの渡航費用に充てたという。
住友家をパトロンに
鹿子木孟郎《白衣の婦人》1901-03年頃(明治34-36)京都工芸繊維大学美術工芸資料館(AN.2298)(前期展示)
ロンドン経由で念願のパリに入った鹿子木は、画家・浅井忠と出会う。浅井は鹿子木に2年間の留学延長を薦めるが、鹿子木には2年間も滞在するだけの費用はない。さて、どうしたものか。
思案をめぐらせていた鹿子木の元に、「日本の住友家が西洋絵画を買い集めている。その購入の手伝いをしないか」という話が舞い込んだ。このときの住友家の当主は美術品の収集に励み、画家の支援にも力を注いでいた住友春翠。鹿子木は住友の担当者を介して、春翠に「限られた資金で西洋絵画数点を買い求めるよりも、むしろ名画の模写や自身の作品を対価として、購入資金を留学費用の援助に充ててほしい」と提案した。西洋の絵を買うよりも、私を援助すれば何倍もの価値がある――。この“プレゼン”は受け入れられ、住友家は2年間の留学を支援することになった。
住友家の援助を得た鹿子木はアカデミー・ジュリアンのジャン=ポール・ローランスに師事。西洋絵画の基礎である人体デッサンに熱心に取り組み、国立美術学校では骨や筋肉を研究するために人体解剖の授業にも参加した。ルーヴル美術館に足繁く通い、アングル《泉》、クールベ《嵐の海》など、世界的な名画の模写にも励んでいる。